【F】Farewell and Forward(別れ、そして前へ)
夕暮れの光が、やわらかく村を包み込んでいた。
昼の名残をわずかに残した風が、草を揺らし、道の土の匂いを運んでくる。ポニーの家へと続く道は、かつての面影を残しながらも、今はきれいに整えられていた。村の人々の手によって直された石畳は、どこか誇らしげに光を受けている。
キャンディは、その道をゆっくりと歩いていた。ひとつひとつを確かめるように、足を運ぶ。
ここで走り回ったこと。
ここで笑ったこと。
ここで泣いたこと。
どれもが、あたりまえのように思い出せる。
まるで、この道そのものが、記憶を抱いているかのようだった。
教会の前で、足を止める。
白く塗られた壁。整えられた窓。
村の人々の手によって、明日のためにきれいに整えられたその姿は、どこか少しだけよそよそしくも見えた。
(明日私はここで結婚式を……)
その言葉が、胸の奥で静かに広がる。ここで、式を挙げる。この場所で。
生まれて間もない頃にここに置かれ、何も知らずに迎え入れられたこの場所で。
キャンディは、自然と足を進めていた。向かう先は、決まっている。ポニーの丘。
いつもそうだった。迷ったときも、泣きたいときも、うれしいときも、最後にはここに来ていた。
丘に立つと、村が一望できた。
ポニーの家、教会。Dr.マーチン診療所の屋根。
そして、その周りに広がる、変わらない風景。
夕焼けに染まりながら、それらは静かにそこに在る。
キャンディは、ゆっくりと息を吸った。
(私は……ここで、生きてきた)
記憶は次々と浮かんでくる。
お母さんも、お父さんもいないことを知った日のこと。
顔も知らない誰かを、どうしても想像できなかった夜。
枕を濡らして、声を押し殺して泣いたこと。
悔しくて、どうしていいかわからなくて、眠れなかった夜。
何度あったかわからない。
けれどそれ以上に、ポニー先生の手のぬくもり、レイン先生のやさしい声。
アニーやトム、ジミー、メアリーたちと笑い合った日々。
同じように傷を持ちながら、それでも互いに寄り添っていた時間。
それらが、すべてを包み込んでくれていた。
寂しくなかった、なんて言えないけど、それでも、ひとりじゃなかった……そう思える。
初めてここを離れたのは、十三のときだった。
突然決まった、ラガン家への奉公。
何もかもが急で、戸惑う間もなかった。
二度目は、ロンドンへの留学。アンソニーの死を受け入れらない気持ちを抱えながら。
三度目は、看護学校へ入学。そして看護婦になり、シカゴで働く。
いろいろあって結局戻ってきた場所はここだった。ここは必ず帰れる場所であり、自分の居場所だ。
けれど、今度は違う。明日、結婚しこの村を離れる。ニューヨークへ、テリィのいる場所へ。
里帰りという形で、きっとまたここに立つ日もあるけれど、そう簡単に戻ってきても行けないとも思う。結婚とは、そういうもの。
寂しさが、ないわけではない。ここにあるすべてが、自分の一部だったから。
楽しかったことも、つらかったことも、悔しかったことも、うれしかったことも全部、この丘は知っている。
全部、ここに置いていくような気がしていた。
それでも迷いはなかった。
テリィと生きていく未来は、ずっと前から心のどこかにあったものだから。
ふと、視線を下ろす。
ポニーの家の前に、一台の車が停まっているのが見えた。ドアが開き、ひとりの女性が降り立つ。
凛とした佇まい。その姿に、すぐにわかった。
テリィの母、遠くからでも、その存在感ははっきりと伝わってくる。
ポニー先生とレイン先生が迎えに出て、穏やかに言葉を交わしているのが見えた。
私も出迎えようと丘を駆け降りる。
その途中で、向こうから歩いてくるテリィが、ふと見上げた。
「キャンディ!母さんが到着したよ。きみに会いたがってる」
その声が、夕暮れの空気を揺らした。
キャンディの胸が、ふっと軽くなる。
「うん!私も会いたいわ」
自然と、笑顔がこぼれる。
キャンディは丘を振り返り、もう一度だけ、ゆっくりと目を閉じる。
風の音、草の匂い、遠くで響く誰かの声。
すべてを、心に刻むように。
前を向くと視線の先には、テリィの姿。
待っている人がいる、これから、共に歩く人が。
キャンディは、ふたたび駆け降りる。振り返らずにすべてを胸に抱いたまま。
別れは、終わりではない。
前へ進むための、やさしい境目なのだ。