【D】Drawn to You(引き寄せられるふたり)




シカゴの街に入ったときから、どこか落ち着かなかった。理由は、わかっている。わかっていながら、意識の奥へ押しやろうとしていた。

窓の外を流れていく街並みの中に、何度も目に入る紋章。アードレー家の紋章だ。この街では珍しいものではない。むしろ当然のようにそこにあるもので、気に留める理由など本来はなかった。それでも、視界に入るたびに、思考が引き戻される。

考えるな、と自分に言い聞かせる。

考えても仕方のないことだ。あの場所に、彼女がいるとは限らない。むしろ、いないはずだと思っている。あいつは、華やかな灯りの下よりも、やわらかな光の中にいる。

だから、シカゴに来たからといって、会うことなどない。そう考えていた。


公演は順調に進んでいた。地方巡業の最中にあっても、シカゴの舞台はどこか空気が違った。観客の熱も、劇場の張り詰めた気配も、すべてが一段深く感じられる。

最終日、幕が降りたときの拍手は長く、重く、身体の奥にまで残るようだった。その余韻を引きずったまま楽屋へ戻り、ようやく息をついたときだった。

団長に呼ばれた。用件は簡潔だった。パーティーに出席予定だった女優が体調を崩し、代わりに出てほしいという話だった。

一瞬、言葉が途切れる。パーティー、シカゴ……。

その二つが頭の中で重なる。

主催を確認すると、やはりというべきか、アードレー財団の名が出た。

予想していた。予想していたが、実際に言葉として聞くと、胸の奥で何かが静かに動いた。

断る理由はなかった。主演俳優として、その場に立つのは当然の役割だ。スポンサーとの関係も理解しているし、興行がどのように支えられているかも知っている。それでも、ほんのわずかに間があいた。

別の誰かではだめなのか、と口にしたのは、その間を埋めるためだったのかもしれない。

だが、団長は首を横に振った。君以上に相応しい人間はいない、と。

それが事実である以上、逃げ道はなかった。結局、了承するしかなかった。


支度をしながら、自分の選択を反芻する。なぜ断らなかったのか。理由はいくらでも用意できたはずだった。それでも、口から出たのは了承の言葉だった。

役者だからだ、と自分に言い聞かせる。それが最も筋の通った答えだった。だが、それだけでは説明がつかないことも、わかっていた。


会場へ向かう車の中で、窓の外を眺める。夜のシカゴは、光に満ちていた。ネオンが流れ、街は賑やかに息づいている。その光景をぼんやりと見つめながら、ふと考える。

もし、彼女がいたら。その思考が浮かんだ瞬間、すぐに打ち消す。

いるわけがない。そう思い直す。

それでも、その「もし」は、完全に消えることはなかった。


ホテルが見えてくる。整えられた外観と、そこに集う人々の気配。そのすべてが、どこか現実から一段離れた場所のように感じられる。

車が止まり、ドアが開く。外に出た瞬間、冷たい風が頬を撫でた。

ここまで来て、引き返す理由はない。歩き出す。団長の隣で、いつものように。役者としての顔を保ったまま。

だが胸の奥では、何かが静かに引き寄せられていた。理由も根拠もない。ただ、確かにそこへ向かっているという感覚だけがあった。


会場の扉が開く。光と音が一気に流れ込んでくる。その中へ足を踏み入れた瞬間、ほんのわずかに、境界を越えたような感覚があった。

何も起きるはずがない。そう思っている。

それでも、胸の奥がわずかに騒いでいた。


視線を上げる。その先に何があるのかも知らないまま。ただ——引き寄せられるように。

その手紙が届いたのは、半月ほど前のことだった。

封を開けたとき、そこに記されていたのは、アードレー財団主催の記念パーティーへの出席依頼だった。

差出人はアルバート。総長としてどうしても外せない重要な会合であること、そして当日は到着が遅れるため、その間の名代を務めてほしいという、簡潔で無駄のない文面。

キャンディは、これまで、こうした場に名代として立つような役目を任されたことはある。ただ、シカゴの財界人たちが集う場所で、自分がアードレーの名を背負うことは荷が重く、できれば出席せずにすむ言い訳がないかと考えを巡らせる。

けれど、そのパーティーの性質が書き添えられていた。寄付金の一部が財団を通じて孤児院へ送られること、自分が育った場所と繋がっているということ。

断る理由は、見つからなかった。


シカゴに向かう道中、窓の外を流れる景色を眺めながら、キャンディは何度も自分に言い聞かせていた。

ただのパーティー。名代として出席するだけ。

それ以上でも、それ以下でもない。それなのに、今夜は心がどこか定まらない。


会場に入ると、空気が変わった。

華やかな照明と音楽、交わされる言葉のひとつひとつに、どこか緊張が含まれている。そこに立つ自分が、ほんの少しだけ場違いに思える。

それでも、背筋を伸ばした。アルバートの名代としてここにいる以上、迷いを見せるわけにはいかない。

「アードレー総長は……?」

問われれば、穏やかに答える。

「遅れております。代わりに私が——」

言葉は自然に出る。けれどその奥で、あの違和感は消えなかった。

うまく言葉にできないまま、胸の奥で小さく波打っている。


ふと、入口のほうがざわめいた。人々の視線が一斉にそちらへ向く。

その瞬間、胸の奥の違和感が形を持った。

これまで感じていた小さな揺らぎが、ひとつに繋がる。

(テリィ?……テリィなの?どうして……)

息が、わずかに止まる。


のちに、引き寄せられていたのだと、気づくことになる。

この街に来ることも。この場に立つことも。
そして、この瞬間も。

すべてが、偶然のようでいて、どこかで繋がっていた。


その先に、何があるのかも知らないまま。

ただ、彼から目を逸らすことができなかった。