【C】Catastrophe(あの日、すべてが変わった)
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
ホリデーシーズンを目前に控えた劇場は、独特の熱気に包まれていた。
『ロミオとジュリエット』のゲネプロは終わり、最終の見直しに入っていたその日、舞台上には緊張と高揚が入り混じった空気が流れていた。
数日後には幕が上がる。テリィにとっては、初めての主演舞台だった。
役の中に沈み込みながらも、その奥では常に張り詰めた意識が働いている。ほんのわずかな違和感も見逃さないように、神経は研ぎ澄まされていた。
だが、あの瞬間だけは、何も感じ取れなかった。
台詞を終え、演出家と次の動きの確認をしていたときだった。視界の端に、何かが“迫ってくる気配”があった。認識するよりも早く、強い衝撃が身体に走る。誰かに突き飛ばされた、ようだ。
足元が崩れ、舞台の床に倒れ込む。その直後だった。
——轟音。建物全体を揺らすような、鈍く、重い音。続いて……
「い!痛――い!!」
耳を裂くような悲鳴が、空間を支配した。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。床に倒れたまま、テリィはただ、目の前の光景を見上げるしかなかった。
人が、集まっていく。スタッフ、共演者、誰もが一点に向かって駆け寄っていく。
その中心にいるのが、誰なのか。考えるよりも先に、身体がわずかに震えた。
(……まさか)
起き上がろうとするが、足に力が入らない。突き飛ばされた衝撃が、まだ身体に残っている。それでも、視線だけはそこから逸らせなかった。
人の隙間から見えたのは、舞台の上に倒れたまま、動かないスザナの姿だった。照明器具が落ちていた。本来、そこにあるはずのない位置に。
その下に、彼女がいた。スザナは起き上がれないのだと、すぐにわかった。
「痛い……っ、痛い……!」
声が、途切れ途切れに漏れる。
その声には、これまで聞いたことのない種類の苦痛が滲んでいた。
誰かが名前を呼ぶ。誰かが指示を飛ばす。だが、そのすべてが遠くに聞こえた。
テリィは、ただその光景を見ていた。自分がそこに立っていたはずの場所。その位置に、今、彼女がいる。
やがて、スザナの声が途切れた。
「……おい、意識が!」
誰かの叫びが響く。その瞬間、空気が変わった。
慌ただしさが、一気に切迫したものへと変わる。
担架が運び込まれ、慎重に彼女の身体が持ち上げられる。そのとき、スカートの裾が、目に入った。
赤く、濡れている。あまりにも生々しく。
息が、止まる。それが何を意味するのか、理解したくなかった。理解すれば、すべてが現実になってしまう気がした。
救急車のサイレンが近づいてくる。その音だけが、妙に現実的だった。
運ばれていく担架。揺れる白い布。その上に横たわる彼女の顔は、蒼白で、正気を失っていた。
「……」
声が出なかった。呼び止めることも、名前を呼ぶこともできなかった。ただ、見送ることしかできなかった。
「ヤコブ病院だそうだ!」
団長の声が響く。
「私たちは救急車を追う。今日の稽古はここまでだ。解散してくれ!」
誰もが、その言葉に従うしかなかった。だが、テリィは動けなかった。一瞬の沈黙のあと、口を開く。
「……俺も行きます」
団長は短く頷いた。
「わかった。病院で待っている」
それだけ言って、背を向けた。
病院へ向かう道中、テリィは一言も発さなかった。何を考えているのか、自分でもわからなかった。
ただひとつ、はっきりしていたのは、
(……俺は突き飛ばされた)
その感触だけだった。あの瞬間の、あの力。迷いのない動き。あれがなければ、自分があそこにいただろう。
手術室の前は、重苦しい空気に包まれていた。
すでにスザナの母が駆けつけており、取り乱した様子で団長に詰め寄っていた。
「どういうことなの!?どうしてあの子が——!」
声は半ば悲鳴に近い。説明しようとしても、言葉は届かない。感情が先に溢れ、理性が追いついていない。
その光景を、テリィは少し離れた場所から見ているしかなかった。
やがて、スザナの母の兄が到着し、なんとか場を落ち着かせる。
団長が、事故の経緯を説明する。その途中でテリィは、一歩前に出た。
視線が、一斉に集まる。
「彼女は、僕を助けて……」
そう言いかけたが、それ以上、どう説明していいのかわからなかった。スザナの母は、ゆっくりとこちらを見る。
「あなたが……テリュース……?」
その声には、驚きと、何か別の感情が混じっていた。
「娘が……あなたとの共演を、どれだけ楽しみにしていたか……!」
その言葉の先にあるものを、テリィは受け取ることができなかった。
やがて、手術室の扉が開く。白衣の医師が現れた。その表情を見た瞬間、嫌な予感が走る。
「先生!あの子は——!」
スザナの母が駆け寄る。その問いに対して、医師は静かに口を開いた。
「命を助けるためには、下肢の切断が必要です」
言葉は、淡々としていた。
あまりにも静かに告げられたその内容が、かえって現実味を失わせる。
「……は?」
理解が追いつかない。誰もが、同じだった。
「お母さん、すぐに同意していただけますか。一刻を争います」
その問いに、すぐに答えられるわけがなかった。スザナの母は、ただその場に立ち尽くしていた。やがて、兄が前に出る。
「……お願いします」
絞り出すような声だった。
その瞬間、スザナの母が崩れ落ちる。
「どうして……どうしてこんなことに……!」
泣き叫ぶ声が、廊下に響く。
テリィは、その場から動けなかった。
何も言えなかった。何もできなかった。
ただ立っていることしかできなかった。
その日。すべてが、変わった。
スザナの未来も。そして——自分の未来も。
何ひとつ、元には戻らない場所へと、確かに進み始めていた。