【A】Anchor(支えられて……仲間への感謝)
ハムレットの千穐楽は、これ以上ないほどの熱狂の中で幕を閉じた。鳴り止まない拍手の余韻を背に、テリュース・グレアムは最後まで深く頭を下げ続けていた。三ヶ月の予定だった公演は半年へと延び、それでもなお終わりではなく、一ヶ月の休みを狭み再演が決まっている。
マンハッタンの夜景を見下ろすホテルの上階、会員制バーの入口で、ケビンとマイケルは所在なげに立っている。
「……なあ、ほんとにここなのか?」
「うん、住所も店の名も合ってるけど」
「俺らが入っていい場所に見えねえな」
「同感だ」
「いっそのこと、帰るか?」
「テリュース来るんだから無理だよ」
そう言い合いながらも、ふたりは観念したように受付へ向かい、テリュース・グレアムの名を告げた。その瞬間、空気がわずかに変わり、丁寧に頭を下げられて奥へと案内される。その扱いに、ケビンは歩きながら思わず小声を漏らす。
「……おい、今の聞いたか」
「聞いた」
「なんなんだよ、あいつ」
言葉が続かないまま、案内された個室の扉が開く。窓の向こうに広がる夜景を目にした瞬間、ふたりは同時に言葉を失い、やがてケビンがようやく声を出した。
「とんでもない高級店だよな」
「こういうとこ、俺初めて」
「俺も」
苦笑を交わしたあと、ふたりは肩をすくめる。
緊張からか、交代で化粧室に行く。ふと周囲に目をやると、そこにいる客たちの雰囲気が違っている。
年配の紳士も、若い男女も、決して仰々しい正装ではないが、どこか観劇に出かけるときのような、きちんと整えられた身なりをしている。
仕立てのよいジャケット、落ち着いた色合いのドレス、磨かれた靴。派手さはないのに、ひと目で“場にふさわしい”とわかる装いだった。
個室に戻るとケビンは思わず自分の袖口を見下ろし、マイケルも無言で襟元を軽く整える。
客の佇まいだけではない。静かに動く従業員たちの所作にも無駄がなく、声を張ることもなく、必要な距離をきちんと保っている。
その一つひとつが、場の空気を崩さないよう、よく訓練されていることを感じさせた。
騒がしさはないのに、どこか張り詰めたような上品さが、この空間全体を包んでいる。
「……危なかったな、これ」
ケビンが苦笑まじりに言う。
「テリュースが言ってたドレスコードに合わせて良かった」
「だな」
しばらくして扉が開き、テリィが現れる。
「悪かったな、待たせて」
「おう、ハムレット様のお出ましだ」
「おい、どうしてこんな店知ってんだよ」
ケビンの問いに、テリィはグラスに軽く視線を落としたまま、あっさりと答えた。
「団長と理事に連れてこられて、主役はこういう場所で飲めないと笑われるぞと。紹介受けた」
「なるほど、酒席の場も弁えろってことか」
「そういうことだ。ま、でもここは静かで、余計な詮索も入らない。話をするには都合がいい場所で気に入ってる」
グラスが運ばれると、三人だけの静かな時間が自然と始まった。
舞台の出来や観客の反応についての話は尽きることがなく、笑いも交えながら言葉を重ねていくうちに、場の空気はすっかり和らいでいく。
「にしても、今日のラストはやばかったな」
「客席、息してなかったんじゃないか」
不意にテリィがグラスを置いた。
その動きはさりげないものだったが、自然とふたりの視線を引き寄せた。
「……昔、お前たちに言われた言葉があるんだ」
その言葉に、ケビンが少し身を乗り出す。
「なんだよ急に」
テリィは少しだけ考えるように間を置いてから続けた。
「チャリティー公演の合宿をしてたときだ」
「ああ……懐かしいな」
マイケルが静かに頷く。
「そのとき、『背筋伸ばして、誰にも頼らずに、全部自分で抱えて……。たまには頼れよ、俺たちに』って」
その瞬間、マイケルの表情がわずかに変わった。照れくさそうに惚けてみせる。
「そんなこと……言ったっけ?」
「言った、マイケルが言った。その言葉、俺は、お前たちの思いだと受け止めた」
テリィは幼い頃から一人だった。所詮、人は孤独なのだと思っていた。
だが、チャリティー公演で距離を縮めた同年代の仲間たち。初めて仲間に“支えられて”舞台に立っていると実感した。
テリィはほんのわずかに視線を落としながら言葉を続ける。
「あのとき、正直なところ……その言葉で少し救われた」
ケビンが目を瞬かせる。
「お前らがそう思ってるってわかったこともそうだけど、いつも通り声をかけてくれてたことに……」
そこで一度言葉を区切り、静かに付け加える。
「……あれで気持ちが楽になった」
その言葉には、あの時間を実際に通り抜けた者にしか持ち得ない重みがあった。
マイケルが小さく息を吐く。
ケビンは、困ったように笑った。
「……やめろって、そういうの」
「俺ら、何もしてねえって」
「むしろ勝手に喋ってただけだ」
マイケルも同じように苦笑するが、テリィは静かに首を振る。
「いいんだ」
その声音は穏やかで、それでいてはっきりしていた。
「俺にとっては、あれで十分だった」
そして、ふたりをまっすぐに見る。
「お前らがいてくれて……良かったと思う。……ありがとう」
その言葉で、場の空気がわずかに変わる。
ケビンは視線を逸らしながら肩をすくめる。
「なんだか……くすぐったいな」
マイケルも苦く笑った。
「同感だ」
「今夜はその礼だ。好きなものを飲んで食べてくれ」
ケビンはうれしそうにグラスを持ち上げる。
「わかった。テリュースの気持ち、ありがたく受け取るよ」
「そうだな」
マイケルも応じる。
テリィも静かにグラスを持ち上げた。
「じゃ……仲間に乾杯」
三つのグラスが触れ合い、小さな音が静かな空間に溶けていく。
窓の外には、変わらず光の海が広がっている。
舞台の上ではなく、役でも台詞でもない場所で交わされた言葉は、静かに、しかし確かに胸に残り続ける。
その夜は、三人だけのまま、ゆるやかに更けていった。