【H】Hushed Goodbye(声にならない別れ)
クリスマスの街は、冬の冷たい空気の中でもやけに温かく見える。通りには人があふれ、笑い声や呼び声が重なり、まるで街そのものが浮き立っているようだった。
マデリーンは、その中をひとりで歩いていた。特別な目的があったわけではない。ただ年の瀬の空気に押されるように、なんとなく街へ出てきただけだった。
そのときだった。
視界の端に、見覚えのある背中が映った。思わず足が止まる。
人混みの中でも、それははっきりとわかった。
テリュース・グレアム。
あの頃よりも、ずっと落ち着いた佇まいで、それでもどこか人目を引く存在感は変わらない。
そしてその隣には、ひとりの女性がいた。
彼は、買い物袋を片手に持ち、もう片方の手で、その女性の手を自然に取っている。迷いのない手の重なり。
女性は、楽しそうに何かを話していた。明るく、柔らかな声で。その言葉に、テリィは微笑みながら耳を傾けている。
あの男が、こんな顔をするのかと思った。
胸の奥で、何かが静かに動く。それは驚きに近い感情だった。
スザナと過ごしていた時間を、マデリーンは知っている。あの事故のこと。彼の決断のことなど。
テリィは、確かにスザナのそばにいた。
誠実に、真摯に、逃げることなく。
だがその表情は、いつもどこか静かだった。
穏やかではあっても、決して“無防備な笑顔”ではなかった。
自分を守るような、抑えるような、そんな距離を保ったままの笑顔で、彼はスザナを支えていた。
けれど今、目の前にいる彼は違った。肩の力は抜け、言葉を選ぶでもなく、ただ自然に笑っている。
スザナと過ごす彼とは、その違いは、あまりにも明確だった。
マデリーンも演劇界に携わる身、観察力は一般人より研ぎ澄まされている。
気づけば、足が動いていた。追うつもりはなかった。けれど、目を離すことができなかった。
人混みに紛れながら、少しずつ距離を詰めていく。聞こえないはずの声を、無意識に探している。
自分でもわからない。ただ、知りたかったのかもしれない。あの時間の“その先”を。
やがて、女性が足を止めた。
「ここで待ってて」
そう言って、近くの店の奥へと消えていく。テリィは、言われた通りその場に残った。
手を離したあとも、その余韻が残っているように見えた。マデリーンは、ほんの一瞬だけ迷った。
声をかけるべきではない。そう思うも、けれど足はとまらなかった。
「あら?テリュースさん?」
通りすがりを装って声をかける
テリィは、不意を突かれたように一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、それを押さえるように微かに表情を整える。
「覚えています?私のこと」
「……ええ。覚えていますよ」
落ち着いた声だった。
「お元気そうで」
「ええ、あなたも」
短い言葉が交わされる。それだけで、互いに何を知っているかは、十分だった。
「今日は、おひとりで?」
マデリーンが軽く問いかける。テリィはわずかに視線を動かし、すぐに戻す。
「いえ……一人ではありません」
その言い方が、ほんの少しだけぎこちなかった。それでも、嘘ではない。
「そう……」
マデリーンは頷き、そして少しだけ間を置いて言った。
「ご結婚なさったそうですね。おめでとうございます」
テリィは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。それから、小さく息を吐くようにして答える。
「……ありがとう」
その声には、どこか照れのようなものが混じっていた。
沈黙が落ちる。ほんのわずかな時間。けれど、その間に流れるものは、決して軽くはなかった。
そのときだった。
「テリィ!ちょっと来て、これ見て!」
明るい声が、空気を切り裂く。さきほどの女性——キャンディが、手を振っていた。
その声を聞いた瞬間、テリィの表情がふっと変わる。やわらかく、迷いなく。
「あぁ、すぐ行く」
短く応じるその声も、どこか軽かった。
マデリーンは、その変化を見逃さなかった。いや見てしまった。
「それでは、また」
ほんのわずかに微笑んで、
「お幸せに」
そう言って、その場を離れた。
振り返らなかった。振り返ってしまえば、何かが決定的になってしまう気がした。
歩きながら、胸の奥にある感情を確かめる。
これは何だろう。悲しみではない。怒りでもない。
羨ましさでも——ない。
それでも、どこかがひどく締めつけられる。
まるで、自分が何かを失ったような感覚。
自分が振られたわけでもないのに。
何かを奪われたわけでもないのに。
それでも、心のどこかが空白になる。
ふと、理解する。
これはきっと、スザナの時間を知っているからだ。
彼女が、どんな気持ちであの選択を受け入れたのか。
彼が、どれほど誠実にそのそばにいようとしたのか。
言葉にされなかったものも、すべて知っている。
だからこそ今のこの光景が、胸に刺さる。
そして同時に、思う。
スザナが、この姿を見なくて良かったと思う。
彼のあの笑顔を。あの自然な、何のためらいもない幸福を。
冬の風が、静かに頬をかすめる。
街の灯りは相変わらず華やかで、誰もがそれぞれの時間を生きているのだ。