ニューヨークの午後は、静かに時間が流れていた。
ペントハウスの大きな窓から差し込む光が、床に長く伸びている。
街のざわめきは遠く、部屋の中にはほとんど音がない。
キャンディは、今はひとり、ポニーの家から戻った数日後、長い休暇の合間に、テリィは所用で劇団へ出かけている。
「今日は早く帰れるから」
そう言って出ていったのは午前。
もうすぐ帰ってくるはずの時間だった。
キャンディは時計を見る。
それから、窓の外を見る。
また時計を見る。
どうも落ち着かない。
「……もうそろそろよね」
ぽつりと呟く。そのまま、ふと姿勢を正した。
そして、玄関の方を向く。
「おかえりなさい、テリィ」
言ってみる。
……なんだか固い。少し考えて、言い直す。
「おかえり、テリィ」
今度は少し軽く。どこか照れくさい。
「……うーん」
もう一度。
「おかえり!」
元気よく言うが、やたら声が大きい。
キャンディは両手で頬を押さえた。
「どうしよう……」
新婚になったばかり。
「おかえり」を言うことは、どれほどうれしいことか。でも、いざその時がけるとどう言えばいいのか、よくわからなくなる。
ただ普通に言えばいいだけなのに、それが妙に難しい。もう一度、深呼吸をする。
「おかえりなさい、テリィ」
今度は、少しだけうまくいった気がした。
そのときだった。
「ただいま」
不意に、玄関のドアが開いた。キャンディは目を見開く。
「えっ――」
一歩、出遅れた。
次の瞬間、慌てて小走りに玄関へ向かう。
「テリィ!」
勢いがつきすぎた。そのままぶつかりそうになった身体を、テリィの腕が、すっと受け止めた。
「危ない……!」
気づけば、しっかりと腕の中に収まっている。
キャンディは顔を上げる。テリィは少しだけ驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「走るほど、俺を待ってたのかい?」
その言い方が少し照れていて、余計に心臓が跳ねる。
「ち、違うわよ!」
思わず声が裏返る。でも、それも本当のこと。
「ちょ、ちょっと練習してたの!」
「練習?」
テリィが眉を上げる。キャンディはさらに慌てる。
「そこにあなたが、きゅ、急に帰ってきたから……その……」
言葉がまとまらない。顔がどんどん熱くなる。
「なんの練習?」
テリィが覗き込むように聞く。
「それは……こ、こっちの話よ」
思わず出た言葉に、自分でも少し驚く。
テリィは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「ふーん」
腕の力が少しだけ強くなる。まだ、離さない。
キャンディは逃げることもできず、そのまま見上げるしかない。
「で?」
「な、なに?」
「結局、どれにするつもりだったんだ」
「え?」
「“おかえり”の言い方」
キャンディは固まる。
全部聞かれていたわけではないはずなのに、なぜか見透かされている。
「もう言えないじゃない……」
小さく呟く。テリィは少しだけ笑って、彼女の額に軽く触れた。
「じゃあ、今みたいに飛び込んできて」
「え?」
「驚いたけど、うれしかったから」
キャンディは目を瞬く。
「いいの?」
テリィは静かに言った。
「走ってくるくらい、待ってたんだなぁと思うと、きみがどれほど待ち侘びてくれてるのかわかるから」
その一言で、また頬が熱くなる。言葉より先に、伝わってしまった。
キャンディは視線を逸らしながら、今度こそ伝える。
「……おかえり、テリィ」
今度は、とても自然な声だった。
テリィはそれを聞いて、満足そうに微笑んだ。
「ただいま、キャンディ」
短い言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
それ以来、テリィは帰ってくるたびに、両手を広げようようなった。
キャンディが駆け寄るのを待つその仕草は、いつしか夫婦だけの「おかえり」の形になった。