その追悼記事を読んだとき、キャンディはすぐには意味を受け取れなかった。
文字はたしかに目の前にあった。黒々と並ぶ活字も、整えられた見出しも、写真の中の彼の横顔も、はっきり見えている。けれど、そのどれもが、薄い硝子を一枚隔てた向こう側の出来事のようで、現実なのに現実ではないような、不思議な遠さを帯びていた。
《テリュース・グレアムと歩んだ静かな愛》
《婚約はしていたが、結婚という形は選ばなかった二人》
婚約……その言葉だけが、まるで紙面から浮き上がるように、目に焼きついた。
午後だった。診療所から戻ってきたあと、ポニーの家の応接室に置かれていた新聞を、何気なく手に取っただけだった。窓の外では木枯らしの吹く中、無邪気な子どもたちの笑い声が遠くから聞こえていた。世界は何事もなく続いているのに、紙の上のたった一語が、その穏やかな午後を音もなく裂いてしまった。
婚約していた。以前から記事にはそう書かれてあった。長年支え合ってきた女性。事故を越えた絆。恋人の存在。彼が否定しないことで、肯定していると捉えられていた。
それでも、いざこうしてはっきりと書かれると、胸の奥に冷たいものが落ちていくのを止められなかった。
スザナが亡くなったのだと知ったとき、まず浮かんだのは痛ましさだった。あの事故の夜から、彼女の人生は大きく変わってしまった。その重さを思えば、簡単な言葉では片づけられない。
テリィがどれほど深い悲しみの中にいるだろうと考えれば、胸は締めつけられた。
そばに行けるものなら行って、何も言えなくても、ただ静かに寄り添っていたい――そんな気持ちが、自分でも驚くほど自然に湧き上がった。けれど、できるはずがない。
そう思った瞬間、キャンディの中で、あらゆる想いが言葉を失った。心配も、哀しみも、懐かしさも、まだ消えきらない愛しさも、すべてが“行ってはいけない場所”の手前で立ち尽くすしかなかった。
記事には、まるで本当にそばで見てきたような筆致で、ふたりのことが書かれていた。長い年月を共に過ごし、結婚という形は選ばなかったけれど深く結ばれていたのだと。静かで強い愛だったのだと。
キャンディは何度もその一文を読み返した。婚約はしていたが、結婚という形は選ばなかった二人。読み返すたびに、胸のどこかが少しずつ痺れていくようだった。
(やっぱり婚約……していたのね)
本当なんだ……。テリィは否定しなかったのだから。これまで何年も、記事がそう書くたびに、彼は沈黙をしていた。その沈黙は、今になってひどく重く感じられた。言葉にされなかった年月そのものが、真実を裏打ちしているように思える。
それなのに、どこかで、現実味がない。胸が痛いほどに現実なのに、同時に、夢の中の出来事のようでもある。
彼の人生の大事なことを、遠い新聞の紙面でしか知ることができない。その距離が、出来事の輪郭をぼやかしているのかもしれない。あるいは、心が強すぎる痛みから逃れようとして、どこかで勝手に現実の手触りを薄くしているのかもしれなかった。
キャンディには、もうわからなかった。
ただ、記事を読みながら、頭の中でいくつもの記憶が勝手につながっていくのを止められなかった。
シカゴのあの夜。庭園で再会したときの彼の顔。
「今……きみは幸せ、なのか?」と、喉を詰まらせるように問うた声。
あのときの灰色の瞳にあった、痛みのようなもの。あれは何だったのだろう。
婚約者を持つ人の目としては、あまりにも切実だった気がする。けれど、そう思うこと自体が、もう自分の願いを混ぜてしまっているのかもしれない。
(だめよ)
キャンディは心の中で首を振る。そうやって都合よく記憶を並べ替えてはいけない。
自分が傷つかないように、過去の彼の表情に別の意味を与えてはいけない。記事に書かれていることが真実なのだ。
テリィは婚約していた。スザナを愛していた。彼女を失って、深い悲しみの中にいる。
そこまではっきり言葉にしてみても、なお心のどこかが「本当に?」と小さく揺れる。その揺れが、自分でもひどく嫌だった。
受け入れたいのか、受け入れたくないのか。
哀しんでいる彼を思って胸を痛めているのか、それとも、自分の恋が完全に終わったことを突きつけられて苦しいのか。そのどれもが本当で、そのどれもが違う気もした。
新聞を閉じたあとも、活字は頭から離れなかった。結婚という形は選ばなかった。静かな愛。
その言葉たちは、読み終えたあとも胸の内側に居座り続け、まるで焼き印のように記憶に残った。
それからしばらく、キャンディは妙に落ち着かなかった。診療所で患者に笑いかけているときも、子どもたちの世話をしているときも、ふいにその一文が脳裏に浮かぶ。けれど浮かんだ瞬間、自分の中で少しだけ形を変える。
自分でも意識しないうちに、記憶が少しずつずれていく。
まるで、心が勝手に衝撃を和らげようとしているみたいだった。強く殴られた痛みを、そのまま受け止めたら立っていられないから、少しだけずらし、少しだけ薄め、少しだけ現実味を奪って、自分を守ろうとしているみたいに。
でも、どれだけ薄めようとしても、最後には同じところへ戻ってしまう。
テリィは、本当に婚約していたんだ。
その事実だけが、何度でも胸に戻ってきた。
夜、ひとりになると、なおさらだった。
ベッドに横になり、灯りを落とした部屋の中で、キャンディは目を閉じる。
すると、新聞の文字よりも先に、彼の顔が浮かぶ。少年のころの彼ではなく、シカゴで見た黒のタキシード姿でもなく、もっと曖昧な、いくつもの時間が重なった彼の顔。笑った顔、怒った顔、意地悪そうに目を細めた顔、そして最後に見た、あのどうしようもなく痛そうな目。
そのすべてが、今では“誰かの婚約者だった人”という一つの事実に塗り替えられていくようで、苦しかった。
(そばで励ましてあげたかった)
ふいに、そんな想いが浮かぶ。大切な人を失った人に、何かしてあげたかった。
悲しみの底にいるなら、少しでもその痛みを軽くしてあげたかった。
けれど、それは叶わない。叶うはずがない。自分はもう、彼の人生の外にいるのだから。
それに、その願いの底には、きっと別の想いも混じっている。
ただ慰めたいだけではない。会いたい。声を聞きたい。触れたい。そういう、もう許されない気持ちが。
だからキャンディは、その想いごと胸の奥に押し戻すしかなかった。
窓の外で、秋の風が静かに木の葉を鳴らしている。
季節は進んでいく。
人も、前へ進んでいく。
そうしなければならない。
それなのに、自分の中だけが、どこか同じ場所に取り残されているような気がした。
スザナの死を悼むことと、テリィの悲しみを思うことと、自分の恋が完全に終わったと知ることと。その三つが絡まり合ってしまって、何をどう感じればいいのか、もう整理もつかなかった。
ただ一つはっきりしていたのは、この記事が、自分の中に強い記憶として残ってしまったということだった。
たとえいつか細部を忘れても、この感覚だけは消えないだろうと思った。
新聞を開いた午後の光。活字の冷たさ。
“婚約”という言葉、胸が沈むような痛み。
そして、そのあとに訪れた、奇妙な遠さ。
現実なのに、現実であってほしくなくて。
だから心が勝手に輪郭を曖昧にしてしまう。
けれど曖昧にしても、痛みだけは消えてくれない。
キャンディは毛布を胸元まで引き上げ、静かに目を閉じた。
(テリィ……)
心の中でその名を呼ぶ。
愛してはいけない人の名を、もう一度だけ。
あなたは今、どれほど深く哀しんでいるの。
彼を思う気持ちだけが、どうしようもなく残っていた。
慰めてあげたいと願うことさえ許されないまま、キャンディは静かな秋の夜に、ひとり目を閉じていた。