春の光は、やわらかく、ポニーの家の窓辺に差し込む陽射しは、冬のそれとは違い、あたたかさを含んでいる。石畳に落ちる影も、少しだけ輪郭をゆるめ、風はやさしく草を揺らしていた。

その午後、診療所から戻ったキャンディは、いつものように応接室に立ち寄った。

テーブルの上に、新聞が一部。何気なく手に取り、ページをめくる。その瞬間、指が止まった。

《ハムレット、ロンドンを魅了》

大きな見出しの下に、彼の名前。胸の奥が、静かに揺れる

(ロンドン……)

ついにそこまで行ったのだと、どこか遠い場所の出来事のように思う。ページを少し下げる。その隣に、もうひとつの記事。ほんの少し、小さな見出し。けれど、その言葉は、鋭く胸に入り込んできた。

《テリュース・グレアム、婚約か》

――婚約。その一語に、呼吸が止まる。視線が、動かない。記事の内容を追う。

長年支え続けてきた女性。事故を乗り越えた絆。沈黙を守る彼。否定しないことは、認めているに等しいのではないか、と。

(……そう、なのね)

ゆっくりと、息を吐く。どこかで、わかっていた。

あの記事が繰り返されるたびに、彼の隣に名前が並ぶたびに、きっと、未来はこうなるのだと。

それでも。

(……やっぱり)

胸の奥が、きしむように痛む。けれど、涙はこぼれなかった。ただ、静かに受け止める。

(これで……いいのよね)

そう思う。そう思わなければ、前に進めない。

彼は、自分の道を歩いている。舞台の上で、光の中で。多くの人に求められ、愛されて。

そして、その隣には、支える人がいる。

(あなたが選んだ未来なら)

指先が、わずかに震える。

それでも、新聞を丁寧にたたんだ。

(……ちゃんと、喜ばなきゃ)

そう思う。心から、彼の幸せを。そうしなければ……

(忘れられないままじゃ、いけない)

その言葉が、はっきりと胸に落ちた。

忘れなければ、と。

今度こそ、本当に。そう決めたとき、心の奥で何かが静かに崩れた気がした。


その夜。自室の机に向かい、キャンディは一枚の便箋を広げた。

ランプの灯りが、紙の上にやわらかく落ちる。ペンを持つ手が、少しだけ重い。

(……書こう)

誰に見せるでもない。送るわけでもない。けれどこれは、彼に向けた手紙。彼が読むと思って書く手紙。そう思わなければ、書く意味がない。


ゆっくりと、ペンを走らせる。

――テリィ。

その名前を書いた瞬間、胸が強く締めつけられる。

何を書けばいいのか、わからなくなってしまう。

言いたいことは、たくさんあるはずなのに、言葉にすると消えてしまいそうで。

それでも、少しずつ、紡いでいく。あなたが舞台に立っていること。ロンドンで成功したこと。それを知って、とてもうれしかったこと。

そして――

(……おめでとう、って)

書こうとして、手が止まる。震える指先。インクが、わずかに滲む。

(本当に……そう思えてる?)

自分に問いかける。答えは、すぐには出なかった。けれど。

(そう思いたい)

それが、今の精一杯だった。だから、書いた。

――おめでとう、と。

その一言に、想いを込める。

ゆっくりと、息を吐く。それは、最後の一行。

しばらく、ペンは動かなかった。

何度も、書こうとしては止まり、消してはまた考える。

(これで……本当に終わりにするのよ、キャンディ)

心の中で、そう決める。だから、震える手で、書いた。

――テリィ、好きでした。

過去形にする。たったそれだけの違いが、こんなにも重い。

書き終えた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れそうになる。

(……違う)

心の奥が、叫ぶ。好き“でした”じゃない。

好き。今もずっと。……それでも。

(だめ)

ゆっくりと目を閉じる。これは、終わらせるための手紙。終わらせるために、書いた言葉。だから――

「……これで、いいの」

小さく呟く。声は、少しだけ震えていた。

便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れる。

そのまま、机の引き出しを開けて、そっとしまう。

引き出しを閉めたとき、何かひとつ、確かに終わった気がした。

けれど、ベッドに腰を下ろした瞬間、胸の奥に残っているものに気づく。

(……消えないのね)

文字にしたことで、かえって鮮明になった想い。

押し込めたはずの感情が、静かに広がっていく。

(好き……今でも)

声には出さない。出してしまえば、崩れてしまうから。

(ずっと、好き)

それでも、心は嘘をつけない。

(……でも、もう)

ぎゅっと、手を握る。

「思っていちゃ、いけないの」

その言葉で、自分を鎮める。何度も、何度も。

春の夜は静かに更けていく。

窓の外には、やわらかな風。遠くで、草が揺れる音。

その中で、キャンディはひとり、想いを抱えたまま、静かに目を閉じた。

――終わらせたはずの恋を、胸の奥に残したまま。