その出来事は、数日後に起きた。
冬の夕刻。劇場裏の石畳は霜で白く曇り、吐く息が淡く空へ溶けていく。
その日も公演を終えたばかりの楽屋口には、記者たちが集まっていた。フラッシュが瞬く。低いざわめきが波のように押し寄せる。
「ミスター・グレアム!」
いつもの光景だった。彼は足を止めないがそのとき、群衆の中から一歩前へ出た男の顔が、ふと視界に入った。
見覚えがある、どこで見た顔。すぐには思い出せない。だが確かに、どこかで会っている。
男は笑みを浮かべながら、他の記者よりも少しだけ近くに立っていた。
「スザナさんとご婚約されたそうですね?」
その声を聞いた瞬間、テリィの足が止まった。灰色の瞳がゆっくりと男を見据える。
「……あんた」
わずかに眉を寄せる。思い出した。リハビリ施設の廊下。スザナと話していた男だ。何度か見かけたことがある。そのときスザナは言っていた。
――昔お世話になった舞台関係者の人よ。
彼はそれを疑わなかった。
「……あんた、記者だったのか」
低い声だった。男は肩をすくめる。
「ええ、まあ」
テリィは一歩近づいた。
「なら、わかるだろう」
声は抑えられているが、冷たい。
「俺とスザナが、そういう関係じゃないことくらい」
男は一瞬きょとんとした顔をした。それから、軽く笑う。
「またまた」
フラッシュが瞬く。
「スザナさん本人が言ってたんですよ」
その言葉に、空気がわずかに凍った。
「あなたと恋人同士で、今度婚約することになったって」
テリィは動かなかった。男は続ける。
「本人が言うんだから、嘘の記事なんか書きませんよ」
その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
スザナが?
自分で?
言っていた?
彼は何も言えなかった。ただ視線を外し、ゆっくりと歩き出すしかなかった。
背後では記者たちの声が続いていた。だがその声は、もう耳に入らなかった。
翌日。いつもは玄関先で待つテリィだが、話をしたいとスザナの部屋を訪ねた。窓の外には薄く雪が舞っている。
スザナは机に向かい、原稿用紙にペンを走らせていた。ナレーションの台本。最近、彼女は仕事を始めている。舞台に立つことはできなくなったが、声と文章の仕事を少しずつ広げていた。
リハビリも続け、義足にも慣れてきていた。前を向いているように見えた。テリィは静かに言った。
「……スザナ」
彼女が顔を上げる。
「珍しいわね、私の部屋に来るなんて。どうしたの?」
声は穏やかだった。テリィは慎重に言葉を選んだ。
「昨日、君と話をしてた男は記者だったんだな?」
スザナの手が、わずかに止まる。
「……それがどうしたの?」
沈黙。テリィは続ける。
「君が言ったそうだな。俺と恋人同士で、婚約する予定だって」
その瞬間だった。スザナの顔が歪んだ。
「誰のものにもならないって言ったじゃない!」
突然、声が弾けた。テリィは目を見開く。
「誰のものにもならないんだから、いいでしょ!」
机の上の紙が揺れる。
「それとも、誰かに誤解されたら困るってこと?」
涙が浮かぶ。
「あなたは私を受け入れてくれないんだから!」
声が震える。
「紙面だけでも恋人同士になってもいいでしょう!」
そしてさらに叫ぶ。
「私はどれだけの犠牲を払ったと思ってるの!」
言葉が途切れた。スザナはその場に崩れるように座り込み、顔を覆った。肩が震え、泣いていた。
その姿を見た瞬間、テリィの胸に別の記憶が蘇った。
吹雪の夜。病院の屋上。雪の中しゃがみ込むスザナ、キャンディが飛び降りるところを助けた……雪に濡れた髪。震える肩。
「私にはもう何もないのよ!」
あの叫び。あの絶望。いま目の前で泣いている彼女の姿が、あの夜の影と重なる。
スザナの荒げた声に、テリィは何も言えなかった。
事故の直後、彼女が取り乱す姿は何度も見ている。だがロックスタウンから戻って以来、スザナが感情を爆発させるところを、彼は一度も見ていなかった。
リハビリに打ち込み、仕事も始め、前を向いて歩こうとしている。そう思っていた。現実を受け止め、少しずつ落ち着いてきているのだと。
もちろん、それに甘えていたつもりはない。だが今になって気づく。自分は結局、彼女の本当の気持ちと向き合っていなかったのだと。スザナの叫びは、その事実を突きつけていた。
いま彼女は、確かに前を向いて生きている。
仕事を始め、懸命にリハビリを続け、未来を取り戻そうとしている。だがそれは、失われた未来の上に築かれたものだった。
叶わなかった未来。諦めた未来。その痛みの上に、いまの彼女は立っているのだ。
照明落下事故は、決してテリィのせいではない。それは誰もが理解していることだった。
だが事実として、彼女の怪我は――テリィを助けたためのものだった。その現実だけは、どうしても消えない。
彼女が傷から立ち直るためには、理由が必要だった。未来を信じる理由が。
そしてスザナにとって、その理由は――テリィだった。
彼女は彼を愛している。だからこそ、彼が自分の未来のどこかにいると信じなければ、前へ進むことができなかったのだ。
その意味を、いまテリィは突きつけられている。
「そばにいる」という言葉の、本当の重さを。
それは単に支えることではない。彼女の未来の中に、自分が存在することを許すということだった。
その事実を前にして、テリィは――もう何も言えなくなった。
あの夜からずっと、彼女はこの場所に立っていたのだ。前を向いているように見えても。心の奥では、まだあの夜のままなのだ。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
沈黙が部屋を満たす。その沈黙の重さを、テリィはようやく理解した。
この関係は、もう簡単には解けない。
そして、その沈黙こそが、彼が否定しなかった理由だった。