ニューヨークの朝は、窓から差し込む光でゆっくり始まる。
ペントハウスのキッチンには、柔らかな朝の光が満ちていた。高い窓から見える街はまだ静かで、遠くに車の音が細く流れている。
その静かな朝の中で、キャンディはキッチンに立っていた。
袖を少しだけまくり、まな板の上で野菜を切っている。
包丁が規則正しく小さな音を立てる。トントン、と軽やかなリズム。
鼻歌も混じっていた。特別な曲ではない。
思いついた旋律を、ただ気分のままに口ずさんでいるだけの即興の歌だった。
それを、背後から静かに聞いている人がいる。
テリィだった。
いつの間に来たのか、彼はキッチンの入り口の柱にもたれて、腕を組んでいた。
まだ完全に目覚めきっていないような顔で、ただ黙ってその様子を見ている。
しばらくして、ゆっくり歩いてくる。
そして、後ろからそっと、キャンディを抱きしめた。
「……テリィ」
キャンディは包丁を持ったまま、少しだけ肩をすくめる。
「危ないわ」
「うん」
テリィは答えるが、腕は離さない。
顎を軽くキャンディの肩に乗せると、そのまま彼女の肩越しにまな板を見下ろした。
「何作ってる」
「オムレツよ」
「ふうん」
興味があるのかないのか分からない返事。
けれど視線はしっかり、キャンディの手元を追っている。
トントン、と野菜が切られる。
そのリズムに合わせて、さっきの鼻歌がまた始まる。
キャンディの即興の旋律。
しばらくすると、その続きを、低い声が引き継いだ。
キャンディは少し笑う。
テリィはそのまま、適当に続きを歌う。
旋律は少しずれている。けれど、それが妙に楽しそうだった。
「ねえ、危ないってば」
キャンディが言う。
包丁を動かしながら、肩を軽く揺らす。
「本当に邪魔よ」
「邪魔してない」
「してるわ」
テリィは少し笑った。
「特等席で見てるだけだ」
それは本当だった。
彼は料理を手伝うわけでもない。ただそこにいて、肩越しに手元を見ているだけ。
それでも腕は離さない。
「ねえ」
キャンディが言う。
「あなたの髭が、くすぐったいわ」
「そうか」
けれどテリィは動かない。
そのまま少し顔を近づける。
「きみ、楽しそうだから」
「え?」
テリィは小さく言った。
「料理してるとき、楽しそうだ」
キャンディは少しだけ頬を赤くした。
「そう?」
「鼻歌まで出てる」
テリィは満足そうに言う。
キャンディは少し照れて笑った。
包丁を置き、卵をボウルに割る。
テリィの腕はまだ回っている。
「重いわ。そろそろ離れてくれる?」
「うん」
けれどテリィは、その腕を外そうとはしない。
窓の外ではニューヨークの街がゆっくり動き始めていた。
遠くの車の音、朝の空気。
その中で、キッチンには二人の鼻歌が混ざっている。
テリィの低い声と、キャンディの明るい声。
新しい夫婦の朝は、そんな音で満ちていた。