アードレー家本宅のサロンでは、昼間は客人や使用人の足音が絶えないこの部屋も、今は時計の振り子の音だけがゆっくりと響いていた。
アーチーは一人ソファに深く腰を沈め、グラスの中の琥珀色を眺めていた。ウイスキーが、静かに揺れる。その揺れが、今夜の自分の心によく似ていた。
アニーから聞かされたのは、ほんの数時間前のことだ。
「キャンディが結婚することになったのよ」
それだけでも驚きだった。だが、そのあとに続いた言葉は、もっと予想外だった。
「相手は……あのテリィなの」
その名前を聞いた瞬間、アーチーは思わず声を失った。
テリィ……テリュース・G・グランチェスター。
ロンドンの学院で出会い、キャンディが恋をし、そして——別れた男。
あの二人が。結婚?
アーチーはグラスを傾ける。アルコールが喉を通る。だが、胸の奥のざわめきは少しも静まらなかった。
(……まさか)
今でもまだ信じられなかった。
あれほど遠く離れた二人が、どうして今さら。
いや。「今さら」という言葉が浮かんだ瞬間、アーチーは小さく苦笑した。
今さら、なのは、自分の方かもしれない。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴った。春とはいえ夜はまだ寒い。その音に、ふと遠い記憶が浮かび上がる。
レイクウッド。水の門、笑い声。まだ十五歳だった頃の自分。
そして——キャンディ。あの頃も彼女はいつもまっすぐだった。泣くときも、笑うときも、怒るときも、全部が全力だった。
そんな彼女が、アンソニーを好きになった。
アンソニーならばいい、と。自分よりも、ずっとふさわしいと思い、だから見守った。本当に、そう思っていた。……少なくとも、そのつもりだった。
グラスの氷が、かすかに音を立てる。
アンソニーが落馬した日のことを、アーチーは忘れたことがない。
狐狩りの野原。馬のいななき。そして、地面に横たわる、動かない身体。
あの日、僕たちの世界は壊れた。
泣き叫ぶ彼女の肩を支えながら、アーチーは思った。
今度こそ守らなければ、と。この子を、これ以上、傷つけてはいけない、と。
けれど、人生は、そんなふうにはできていない。
ロンドンの学院。そこにいたが、テリィだった。
気に入らなかった。面白くなかった。
そして、キャンディが、あの男を見る目を、自分は、知ってしまったことも。
あれは恋をしている目。自分がどれほど隠そうとしても、周りにはわかってしまうように。
アーチーは、静かに息を吐いた。グラスをテーブルに置く。
イライザの罠。退学寸前のキャンディ。そして、テリィが言った言葉。
「俺がアイツを守る」
あの瞬間アーチーは、初めて理解した。
この男は、本気だ。中途半端な気持ちでキャンディを好きなわけじゃない、と。
そしてキャンディも、同じだった。
だから、諦めた。いや、諦めるしかなかった。
「……僕がどんな思いで」
アーチーは、ふと呟いた。自分でも気づかないうちに、声になっていた。
「どんな思いで、諦めたと思ってるんだ」
その言葉は、十年以上前の自分に向けたものだった。
そして、もう一人の男にも。
あいつは、キャンディを手放した。事情があったことは知っている。噂も、話も、断片的には聞いていた。
それでもあのときのアーチーには、どうしても納得できなかった。もっと、他に方法があったんじゃないか。キャンディを泣かせない道が。あったんじゃないか、と。
だが。今になって思う。あの二人は、結局、忘れられなかったのだ。
長い年月を、別々の人生を、それぞれ歩きながらも。
それでも、心の奥で、ずっと同じ人を好きでいた。
それは、もしかしたら、とても、滑稽なことなのかもしれない。
だが同時に、とても——あの二人らしいことでもあった。
アーチーは、静かに笑った。少しだけ肩の力が抜ける。
(そうか、そういうことか)
ようやく全部、つながった気がした。
グラスの中のウイスキーを、ゆっくりと飲み干す。
そのとき、サロンの扉が静かに開いた。振り向くと、アニーが立っていた。
「まだ起きていたの?」
優しい声。その後ろには、廊下の灯りが柔らかく漏れている。
アーチーは、ふっと笑った。
「少し、昔を思い出していただけさ」
「そう」
アニーはそれ以上何も聞かなかった。それが、彼女の優しさだった。
「……驚いたよ」
そう言って、軽く肩をすくめた。
「でも、悪くない知らせだ」
アニーは微笑む。
「そうね」
アーチーは、暖炉の火を見つめた。
その炎は、もう静かに揺れているだけだった。
「……あいつら、ようやく追いついたんだな」
長い回り道の果てに、ようやく同じ場所に。
そしてアーチーは、静かに思った。
今度会ったら、今度こそ、心から言えるだろう。
——おめでとう、と。