秋のニューヨークは、どこか澄んでいる。
空は高く、夕暮れの色はゆっくりと深まり、街路樹の葉は赤や金色に染まりながら静かに落ちていく。
舞台の稽古を終えたテリィは、劇場街の喧騒を抜け、ペントハウスのある建物へ戻ってきた。
エントランスは、夕方の光を受けてやわらかく影を落としている。
扉を押して中へ入り、習慣のように一階の郵便受けを開けた。
厚みのある封筒が、いくつかの通知や書類の間に挟まっている。
舞台関係の封書、請求書、広告。いつもの顔ぶれの中に、ひとつだけ違う紙質が混じっていた。
生成り色の、少し重みのある封筒。
整った筆跡。
テリィは無意識にそれを手に取り、宛名を読む。
その瞬間、ほんのわずかに口元が綻ぶ。
『Mr. & Mrs. グランチェスター様』
文字は端正で、迷いがない。
“Mr.”の横に、“Mrs.”が並んでいる。
それはただの宛名でしかない。だが、そこにはこれまでに見たことのない並びが刻まれていた。
テリィは封筒を他の郵便と一緒に抱え、エレベーターの中で、もう一度その文字を見る。
その名は、彼にとって生まれたときからのもので、一度は捨てたものだが、いまは誇りでもあり、時に重さでもある。
そして今、その名の隣に、もうひとつの存在が並んでいる。
扉を開けると、部屋には温かな灯りがともっていた。
キッチンから漂う香り。窓辺に置かれた花瓶。秋の夕陽が、リビングの床に長い影を落としている。
「おかえりなさい」
キャンディの声が、やわらかく響く。
その声を聞いた瞬間、胸の奥の何かが静かに落ち着く。
テリィは帽子を置き、郵便の束をテーブルに広げた。
「アルバートさんから、手紙が届いていたよ」
何気ない調子で言いながら、例の封筒をそっと上に置く。
キャンディが近づく。
「本当?」
彼女が封筒を手に取る。封を切ろうとする直前にふとその手は止まる。
目が、文字を追う。
『Mr. & Mrs. グランチェスター様』
その並びを、ゆっくりと指でなぞる。
しばらくの沈黙。
秋の光が、封筒の縁を淡く照らす。
「……グランチェスター」
小さく、口に出す。
それは彼女にとって、まだ少し新しい響きだった。
アルバートの筆跡、これまでなら、“Miss キャンディ”だ。
「まだ……慣れないわね」
その言葉は、驚くほど静かに零れた。
テリィは彼女の横顔を見つめる。
キャンディは、封筒を胸に当てる。
「ねえ、テリィ。文字になると、本当に夫婦なんだって、急に実感するのって不思議ね」
結婚式を挙げ、指輪を交わし、同じ屋根の下で暮らしている。それでも、こうして公の形で並べられた二つの肩書きは、改めて重みを持つ。
ただ隣に並んでいるだけなのに、それは“共にある”という証のように見えた。
テリィは封筒をそっと彼女の手から受け取り、テーブルに置く。そして代わりに、その手を包み込む。
「俺も同じだったよ、これを見たとき、きみが俺の妻なんだと実感した」
低く、穏やかな声。キャンディの胸の奥が、ふわりと温かくなる。
テリィは彼女を引き寄せ、耳元でわざとらしく囁く。
「Mrs. グランチェスター殿。今夜のメニューはなんだね?お腹が空きすぎて倒れそうだ」
その声は、舞台の低音よりも柔らかい。
キャンディは小さく笑う。
「今夜はシチューよ」
「お、ナイスタイミング!そろそろ食べたいと思ってたところだ」
窓の外、秋の夕暮れはゆっくりと夜へ変わっていく。
夫婦になった証は、まだまだ照れ臭いが、だんだんしっくりくるのだろう。
いつまでも仲睦まじいふたりでいられたらと思うテリィとキャンディだった。