【B】Breakiing Point(均衡が崩れるとき)
すべての診療が終わると待合室は静まり返っていた。
窓から射し込む陽は傾き、夕刻を告げていて、いつもと変わらぬ穏やかな時間が流れているはずだった。
けれどキャンディの手の中にある新聞の紙面だけが、現実の色を失っていた。
その名前を見つけた瞬間、呼吸が止まった。
スザナ・マーロウ。
記事は短く、感情を挟まない無機質な文章で、彼女の死を伝えていた。
静かな最期。わずかな行数で、一人の人生が終わったことが告げられている。
そして、《テリュースとは共に暮らし、闘病生活も支えられていた。婚約はしたものの、結婚はしなかった、という》
視界が揺れた。あの夜の屋上が、まざまざと甦る。
吹き荒ぶ雪、屋上に立つ細い影、そして自分が必死に抱きしめた身体の震え。
「生きていて!スザナ!」
あのとき確かにそう願った。祈るように、心の底から。その願いは、届かなかったのだろうか。
胸の奥がきしむ。涙がにじみ、紙面をぼかしていく。
スザナの人生は、決して平穏なものではなかったのだろう。事故で片脚を失い、絶望の淵に立たされ……。
あの人にも、未来があったはずだ。笑い合う時間が、きっとあったはずだ。
そう思ったとき、涙は自然にあふれた。
けれど、涙の理由はそれだけではなかった。
新聞を握る指先が震える。胸の奥で、もっと深い何かが動いていることに気づく。
彼のそばにはスザナがいる。その事実は、長いあいだキャンディの心を支えていた。
だから自分は身を引いた。あの別れは間違っていない、あれしか道はなかったのだと、自分に言い聞かせてこれた。
スザナの存在が、テリィへの想いを封じる理由になっていた。
その理由が、今……消えてしまった。
胸の奥がひどくざわめく。
もう「彼には守る人がいるから」とは言えない。
もう誰かのために身を引いたのだと、自分を納得させることもできない。
もし心のどこかに、まだ消えていない感情が残っているのだとしたら、それは自分自身の問題になる。
それが、怖かった。
スザナの死を悼む気持ちは本物だ。
命の終わりを悲しまずにはいられない。
けれど同時に、自分の中で何かが崩れかけている感覚もまた、確かなものだった。
もしかしたら、ほんの一瞬でも、何かが変わるのではないかと考えてしまうのではないか。
いえ、こう思うことがもう考えているという証。
そんな自分を想像するだけで、胸が締めつけられる。
涙は止まらなかった。
それはスザナの短い人生への涙であり、運命の残酷さへの涙であり、そして……理由に寄りかかっていた自分を失いかけたことへの涙でもあった。
彼女は顔を伏せたまま、ただ泣き続けた。
もう、逃げ場はない。
そのことを、心のどこかで悟っていた。
次の日。
診察室で包帯を巻きながら、キャンディは不意に手を止めた。
患者の少年の笑顔が、あまりにも無邪気で、一瞬だけ、昔の自分と重なった。
あの頃の自分は、どんな未来を思い描いていただろう。
テリィの顔が、ふっと浮かぶ。
思い出さないようにしてきた顔。
なのに、今は自然に浮かぶ。
そして気づく。あれほど強く閉じていたはずの扉が、完全には閉まっていないということを。
「私は……」
言葉が続かない。
スザナがいる限り、自分は過去の人でいられたのに、今はもう“過去”と言い切れない。
それが怖いのだと、自覚する。
少年が「ありがとう」と笑う。
キャンディも笑い返す。日常は続いている。
世界は何も変わらない。
けれど、自分の中では、小さな均衡が崩れている。
その崩れを、まだ誰にも言えない。
そしてその夜、再び静かな涙がこぼれた。
スザナのためでもあり、自分のためでもあり、
まだ名前を持たない感情のためでもあった。