冬の午後。ロンドンの空は低く、灰色の雲が街を押さえつけるように垂れ込めていた。
「スミス法律事務所」の重厚な扉の内側は、外の寒さとは切り離された静謐な空気に包まれている。
応接室の暖炉には火が入り、赤い炎がゆらゆらと揺れていた。
テリィは、椅子に深く腰かけ、静かに指を組んでいる。
隣にはキャンディ。膝の上には、小さな革の手帳を携えている。
向かいに座るのは、ブレア・スミス弁護士で、代々グランチェスター家の法務を担ってきた老紳士とその隣には、もう一人。
帳簿を抱えた会計士ローレンス。
今日は、舞台の話ではなく、劇場を買うかどうかの話だ。
スミスがゆっくりと書類を開いた。
「例の劇場ですが、正式な売却価格を確認しました」
紙の上に記された数字。
85,000ポンド(現代換算で約7億円台)。
キャンディの指先がわずかに動く。
スミスは続ける。
「所在地はホルボーンとブルームズベリーの間。
ウェストエンドから馬車で十五分ほどですね。
中心部ではございませんが、文化層が多く住む地域です」
テリィが低く言う。
「ここで舞台に立ちましたが。作品が良ければ、客は来る場所です」
「ええ、その通りです。座席数は850席。一階600、二階250。舞台は十分な間口があり、オーケストラピットも完備。アレックス様在任中に改修済みでしたね」
大きすぎず、小さすぎない。だが、失敗すればすぐに赤字になる規模。
スミスは一枚の紙をテリィの前に滑らせた。
「頭金二割の場合、17,000ポンド(現代換算で約1億5,000万円)になります」
テリィは黙ったまま数字を見る。
「残り68,000ポンドを二十年ローン。年利六%で計算しますと」
会計士ローレンスが口を開く。
「年間返済額は約5,900ポンド(現在価値で約五5,000万円強)です」
つまり、何もしていなくても、毎年5,000万円の支払いが発生するのである。
「つぎに年間の固定費についてですが……」
ローレンスは帳簿を開いた。(以下の金額は現代換算日本円で記載)
「建物維持費:約1,200万円。光熱費:約1,000万円。保険・税:約900万円。広告費:約1,500万円。雑費:約600万円の合計、約5,200万円。
さらに常勤スタッフ十二名。支配人、舞台監督、照明、音響、衣装、経理、受付……人件費は、約4,000万円」
スミスが静かにまとめる。
「ローンを含めた固定費は、年間約1億4,500万円」
キャンディは、ゆっくりと息を吸う。
テリィが顔を上げる。
「入るほうは、どのような見込みですか?」
ローレンスは即答した。
「はい。平均単価一名8,000円、満席一公演につき680万円。週八公演で約5,400万円の計算になります」
三か月ロングランすれば6億円規模。
「七割稼働でも、計算上黒字は可能です」
だが、彼は言葉を区切る。
「失敗すれば、赤字になります」
スミスが静かに言う。
「個人名義ではなく、法人化を推奨いたします。たとえば法人名は“テリュース・シアター社”として」
テリィは苦く笑う。
少しの沈黙のあと、ローレンスが言った。
「見せていただいた帳簿から、頭金は用意できます。16,000ポンドは支払えます」
テリィが振り向く。
「……それで、残りは?」
ローレンスがふたたび答える。
「生活防衛資金も残しておかなければならないと思いますが、十分残せそうです」
テリィの表情が、わずかに揺れる。
彼は、初めて実感する。
これは夢ではない。
本当に、劇場を買えるのだ。
テリィは立ち上がり、窓際へ歩いた。
ロンドンの街並みが灰色に沈んでいる。
「舞台は、私の人生だ」
キャンディは、静かにうなずく。
「あなたが舞台に立ち続けるための“場所”になるかもしれない」
スミスは書類を閉じる。
「決断なさるなら、契約草案を準備いたします。
アレックス様側との調整も進めましょう」
テリィはキャンディの手を握った。
キャンディは微笑む。
「やってみましょうよ。私も頑張って働くわ」
「働くって……きみが?無理しなくもいい。これまでどおりで−−」
「看護婦はいつでもどこでも必要とされるのよ。任せておいて!」
「いや、そういうことでは……ま、いっか。ありがとう、キャンディ」
「ええ、どういたしまして」
暖炉の炎が揺れ、影が壁に伸びる。
スミスは静かに言った。
「では、夢を事業に変えましょう、テリュース様」
その日、与えられる舞台ではなく、自ら築く舞台への一歩が踏み出された。