その記事に、テリィは何気なく目を落としただけだった。
ロンドンの地方紙。文化欄の下のほうに、短い記事。
《老舗劇場、売却へ。ニューヨーク資本の整理に伴い――》
アレックスの父の会社の名前。
そして、劇場の名。
金額も、淡々と記されていた。
「……アレックス、大変そうだな」
テリィはそう言って、新聞を畳んだ。
少し間を置いて、ぽつりと呟いた。
「自分たちの劇場があるってのは……やっぱり、いいもんだろうな」
独り言のようだった。
誰に向けた言葉でもない。
けれど、キャンディは聞いていた。
その日の午後、テリィが外出したあと、キャンディは新聞を取り出した。
テリィが見ていた同じ記事をキャンディも読む。
彼女は一度だけ、深く息を吸った。
そして、自室に入ると、引き出しを開けた。
ロンドンに移り住んでからも、ニューヨークにいたころから彼女は変わらなかった。
派手な生活を好まず、必要なものと、そうでないものを、選び続けてきた。
彼が舞台にすべてを賭けていた間、キャンディは生活を支え、そして、未来を蓄えていた。
計算は、すぐに終わった。
もちろん劇場を買える金額は無理だ。けれど頭金なら……
キャンディは、しばらくその数字を見つめてから、
帳簿を閉じた。
夜。テリィが帰宅すると、キャンディはいつもより静かだった。
「……どうした?」
「ね、テリィ」
キャンディは、食後の紅茶を置きながら言った。
「今日の新聞、覚えてる?」
「劇場の記事か?」
「……アレックスさんの劇場、あなたが買うっていうのは、どうかな?」
言葉は、穏やかだった。
提案というより、問いかけ。
だがテリィは、完全に言葉を失った。
「……は?」
その発想は、どこにもなかった。
舞台に立つこと。
呼ばれること。
作られる場所に行くこと。
**自分が“場所を持つ”**など、
考えたこともなかった。
「……冗談だろ?」
「冗談じゃないわ」
キャンディは、静かに言った。
「あなた言ってたでしょう。自分たちの劇場があったら、って」
テリィは、言葉を探した。
「そうは言ったが……でも……金が――」
「うん。だから」
キャンディは立ち上がり、自室から、いくつかの書類を持ってきた。
「これ、見て」
テリィは、一枚、二枚と目を通していった。
そして動かなくなった。
「……なんだ、これ」
声が、少しかすれていた。
「この家の貯蓄よ」
「……いや、それはわかる。そうじゃなくて、なんで、こんな額になる」
キャンディは、少し困ったように笑った。
「必要なものはもちろん買っていたけど、そうでないときは普通に貯めていて……」
テリィは、呆然としていた。
ストラトフォードの舞台の契約書を前にしたときよりも。
これは、まったく想定していなかった“現実”……。
「ごめんなさい、テリィ。あなたの仕事に口を挟むつもりはなかったけど、もしこれが、あなたが舞台に立ち続けるための“道具”になるなら……」
キャンディは、視線を落とした。
「私は、そういうのは出していいと思っていて……」
テリィは、しばらく何も言えなかった。
芝居は、彼の人生そのものだ。
だが、その人生を、誰かがここまで本気で支えていたことを、初めて突きつけられた気がした。
「自分の劇場があれば、俺たちで、舞台を作れる……」
「ええ」
キャンディは、少し強くうなずいた。
テリィは、額に手を当てた。
「……まいったな」
テリィは笑っていた。
「そんな発想、俺一人じゃ、一生しなかったよ」
キャンディは、そっと言った。
「ほんと?私、少しあなたのお役に立てたの?」
「少しどころじゃない、キャンディ、ありがとう」
その夜、テリィはなかなか眠れなかった。
それは不安ではない。
未来が、急に現実の重さを持ったからだった。
舞台は、与えられるものから作るものに変わる。
その一歩が、今、静かに、ここから始まろうとしていた。