バレンタインデーその前夜。
寮の自室で、彼は机に向かっていた。赤い封筒が一枚。
手は、思っていた以上に震えている。
彼は、テリィと同じ公爵家の血を引く少年。
セドリック・ウェントワース。
だがテリィとは対照的で背は低く、丸顔で、少しぽっちゃりしていて、どこかいつも自信がない。
成績は至って普通、運動オンチである。
頼まれれば断れなくて、真面目に取ったノートも簡単に貸す。頼まれたら使い走りもする。からかわれても笑ってその場を凌ぐ。
「いいやつ」と言われることはあっても、テリィのように「憧れられる」ことはない。
だからこそ、あの堂々とした姿に、目を奪われた。
彼女……イライザ・ラガン。
いつも気高く、自信に満ちて、誰にも媚びない。
(ああいう女性の隣に立てたら……)
それだけで、自分が少しは“まし”に見えるのではないか。
恋かどうかは分からない。
でも、胸がざわついたのは確かだった。
カードには、こう書いた。
《あなたの気高さは、冬の薔薇のようだ》
本当は名前を書く前に廊下の足音に焦り、封を閉じてしまった。
翌朝。緊張で頭が真っ白のまま、女子寮のレターケースの前に立つ。
イライザの名札。その隣にキャンディの名札。
手を震わせながら、赤い封筒を、するりと差し込む。
心臓が破裂しそうになる。それだけで精一杯だった。
彼は気づいていない。
イライザの一つ隣に入れてしまったことを。
昼休み。彼は遠くからイライザを見ていた。
苛立っている様子で、キャンディに絡んでいる。
すでにイライザの手に渡っているはずなのに、反応がない。
当然だ。あんな女性が、自分なんかを選ぶはずがない。
(やっぱりな)
始まってもいないのに、胸の奥が、静かに痛む。
その痛みを、誰にも気づかれないように、彼は笑った。
本人は知らない。あの赤い封筒は、本当はキャンディのレターケースに入れてしまったことを。
しかも宛名も差出人もなく、誰からのものか分からないことを。
イライザは、自分宛てに一通も来なかったことに腹を立てているが、テリィから来なかったことに特に苛立っていた。
テリィは、キャンディが四通ももらったと聞き、ほんのわずかに眉をひそめる。
それぞれが、少しずつ誤解したまま時だけが過ぎる。
セドリックの恋は、誰にも届かず、静かに終わった。
翌3月。期末試験のころ。テリィは、キャンディの“即席家庭教師”をしていた。
ふと、テリィがページをめくりながら何気ない顔で言った。
「そういえば噂で聞いたぞ。きみ、バレンタインに四通もカードをもらったらしいな」
キャンディの手がぴたりと止まる。
「だ、誰からそんな話を……!」
「学院は狭いからな」
テリィは肩をすくめる。
キャンディは頬を赤くしながら、慌てて言い訳をするように答えた。
「ち、違うのよ。ひとつは……その……」
視線が一瞬、彼の方へ泳ぐ。
「ひとつは、あなたでしょう?」
「まあ……そうだな」
視線を外しながら照れた声のテリィ。
「あとの二通は……ステアとアーチーよ」
テリィは小さく鼻で笑った。
「ふん。あいつらなら想像がつく。でも、もう一通あっただろ?」
キャンディは、机の引き出しからその封筒を取り出した。
「宛先も差出人もなくて……」
そう言って、テリィの前に差し出す。
カードには、丁寧な文字でこう書かれていた。
《あなたの気高さは、冬の薔薇のようだ》
テリィは一瞬、眉をひそめる。
「……この字、どこかで見た気がする」
しばらく考え込むが、思い出せない。
それよりも、引っかかったのは言葉の方だった。
“あなたの気高さ”。
“冬の薔薇”。
どちらも、彼の中のキャンディのイメージとは違う。
彼にとっての彼女は、無鉄砲で、おせっかいで、人の心配ばかりしてて、笑うと太陽みたいで……
気高い?
薔薇?
(俺の知らない顔があるのか……?)
胸の奥に、ちくりと小さな棘が刺さる。
自分の知らないキャンディを、誰かが見ているのではないか。
テリィはカードを返しながら、どこか不機嫌そうに言った。
「……ずいぶん、上品な表現だな」
「え?」
「きみに“冬の薔薇”なんて、似合わない」
むっとした声。
キャンディは目をぱちぱちさせる。
「だって、見せてって言ったのはあなたじゃない」
「……言ったけどな」
テリィは視線を逸らす。
どうして自分がこんな気持ちになるのか、分かっているくせに認めたくない。
キャンディは、少し困ったように笑った。
「でも……私が好きなのは――」
そこで言葉が止まる。
俯き、指先をぎゅっと握りしめる。
テリィは、はっとした。
彼はそっとキャンディの手を握った。
驚いて顔を上げる彼女。
「そこから先は、俺が言うから」
声は真剣だった。青灰色の瞳が、まっすぐに見つめる。
握られた手の温もりがじんわりと広がる。
カードの言葉は、もうどうでもよかった。