初夏の夕方、空が急に暗くなった。
ニューヨークの夕立ちは容赦がなく、石畳を叩く雨音が高まり、やがて空気が裂けるような雷鳴が響いた。
その音を聞いた瞬間、キャンディの手が止まる。
キッチンのテーブルには、切りかけの野菜。鍋ではスープが出来あがろうとしていた。
もう一度、轟音。窓ガラスがわずかに震えた。
(大丈夫よ……ね。たくさんの家があるもの)
自分に言い聞かせる。
実はキャンディは、雷が苦手だ。
ポニーの家にいたころ、雷が鳴るたびに子どもたちは騒いだ。
「怖い!」と笑いながらベッドに潜り込み、キャンディも一緒になって毛布にくるまった。
あの頃は、怖がっても目立たなかった。子どもたちに紛れていればよかったから。
だから、誰も、キャンディ自身が雷を苦手にしているとは気づかなかった。
けれど、ここはニューヨーク。広い空の下ではなく、高い建物に囲まれた部屋。
そして今は、テリィと二人きり。
(雷が嫌いだなんて、子どもみたい)
そう思うと、口に出せなかった。
三度目の雷が近く落ちる。思わず肩が跳ねた。
キャンディは火を止め、小走りに寝室へ向かう。
ベッドに潜り、毛布を引き上げる。
雷鳴が遠ざかるまで、ただじっと待つつもりだった。
毛布の中は、少しだけ安心する。外ではまだ雨が荒れている。
そのとき、玄関のドアが開いた。
「キャンディ、ただいま」
テリィの声。でもキャンディの声はない。やけに静かな気配。テリィはまた玄関に戻る。
靴はある、揃ってもいる。
キッチンに行くと料理は途中のままの気配がわかる。
だが姿が見当たらない。
「キャンディ」
少しだけ声が低くなる。
リビング、キッチン、書斎と見て歩き、やがて寝室のドアが開く。
すぐにベッドの上に、不自然なふくらみが目に留まる。大人一人分、明らかに何かが隠れている。
テリィはしばらく黙ってそれを見つめた。
ゆっくりと歩み寄り、寝具の端を持つ。
「キャンディ、こんなところでかくれんぼかい……」
その瞬間――今日いちばん近い雷が、空を裂いた。
閃光と轟音。
同時に、毛布が勢いよくめくれ、キャンディが飛び出す。そして、彼にしがみついた。
「テリィっ!」
細い腕が、強く、必死に。
テリィは一瞬驚き、そのまま抱き止める。雷鳴がまだ余韻を残している。
腕の中の体は、小さく震えていた。その感触に、ふと記憶がよみがえる。
セントポール学院時代の夏休み。
スコットランド、グランチェスターの別荘。
急な嵐。窓を打つ雨。
そして、雷と同時に彼の胸に飛び込んできた少女。
あのときと同じだ。ただその時は、突然の雷鳴に驚いただけだと思っていたが。
テリィはゆっくりと彼女の背に手を回す。
「……嫌いだったのか」
キャンディは顔を埋めたまま、少しだけうなずく。
「子どもみたいでしょう。恥ずかしい……」
「いや」
短く、きっぱりと。外ではまだ雨が続いている。
しばらく、二人はその姿勢のまま動かなかった。
やがて雷鳴が遠ざかり、雨音もやや穏やかになる。
キャンディははっとして、そっと離れる。頬が赤い。
「ごめんなさい。突然」
テリィは首を振る。
「いいよ」
そして、少しだけ口元を緩める。
「スコットランドを思い出したよ」
キャンディの目が丸くなる。
「覚えてるの?」
「もちろん、きみとの思い出は忘れることはできない」
あのときの、驚いた顔も、震えながらも強がっていた様子も。
テリィは彼女の頬に触れる。
「俺の前では、強がらなくていいんだぞ」
低い声。静かで、揺るがない。
キャンディの瞳がやわらぐ。胸の奥で、長いあいだ張りつめていた糸が、ふっとほどけた。
ポニーの家では、いつも「お姉さん」でいなければならなかった。
小さな子どもたちが雷に怯えるとき、先に震えるわけにはいかなかった。
怖いものを怖いと言わず、笑ってみせること。
本当は、自分も同じくらい胸がざわついていたのに。
あのころは、頼るより、支えるほうが自然だった。
けれどテリィの腕の中で、はじめて思う。
(ああ、頼っていいんだ)
そう思った途端、力が抜ける。体の奥に溜め込んでいた緊張が、静かにほどけていく。
強がらなくていい。怖いときは、怖いままでいい。
そう許された気がして、心も体も、ふっと軽くなった。
まるで、長いあいだ背負っていた小さな重りを、そっと下ろしたみたいに。
彼は小さく笑った。
「きみに抱きついてもらうために、雷に一役買ってもらうのも悪くない」
キャンディは少し困る顔になるが、すぐにほほえんだ。
「テリィに抱きつく理由ができるから、たまにならいいのかな」
「いつでも俺はウェルカムだけどね」
彼は軽く彼女の額に口づける。
雷は遠くへ移り、やがてただの雨音になる。
キャンディは、もう一度だけ彼に寄り添う。
今度は怯えではなく、甘えるように。
テリィは彼女を抱き寄せる。
外の嵐とは対照的に、部屋の中は、静かで温かかった。