九月の初め。

稽古場を出るころには、空はもう薄く色を失い始めていた。

一日じゅう言葉を吐き、動き、立ち、崩れ、また立つ。

身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。

ハムレットの言葉が、まだ胸の奥で反響していた。


テリィは、遠回りをするように劇場の正面へ回った。

夕暮れの空を背に、ストラスフォード劇場の正面に、大きな看板が掲げられていた。

『HAMLET』

王子とオフィーリアの姿。

光と影を含んだその絵は、まだ新しく、どこかよそよそしい。

その下に、はっきりと刻まれた名前がある。


《主演・テリュース・グレアム》


足が、止まる。

自分の名前。

何度も呼ばれてきた名前なのに、こんなふうに“場所”を持って掲げられると、急に別のもののように見えた。


ふと、別の夜が胸をよぎった。

――あのときも、こうして看板を見上げた。

初めて主演を任された舞台、『ロミオとジュリエット』。

まだこの街が、希望だけでできているように思えた頃だ。

看板の一番上に、自分の名前があった。

それが、ただ誇らしかった。


あのときは彼女を、この街に呼び寄せ、今度こそもう帰さないと、本気で、そう思っていた。

この舞台が終わったら。拍手が落ち着いたら。

カーテンコールの向こう側で、すべてが始まると、疑いもしなかった。

だが、それは、叶わなかった。

同じように見上げた看板なのに、今は、なにもかもが違う。

あの夜は、未来を信じるだけでよかった。

けれど今は、失ったものの重さも、戻らない時間も、すべてを抱えたまま、立っている。

テリィは、静かに息を吐いた。

誇らしさだけで立てる夜は、もう、過去に置いてきた。


胸の奥が、ゆっくりと重くなる。

最初に浮かんだのは、歓喜でも高揚でもなかった。

(……見てもらいたい人は)

心の中で、言葉が途切れる。

(ただひとりだけ……)

名前を呼ばなくても、顔が浮かぶ。

声も、笑い方も、からかうような目の色も。

(きみだけが見てくれれば、それでいいのに……)

そんな言葉を、もし本人に向かって口にしたら、彼女は、どんな顔をするだろう。

――「何言ってるの。こんな舞台、みんなに観てもらわなきゃだめよ」

そう言って、笑う気がする。

あるいは、

――「私だけでいいなんて、もしかして自信ないの?」

少し意地悪に、からかうかもしれない。

テリィは、わずかに口元を緩めた。

(……言えるわけがないな)

「きみだけが見てくれればいい」なんて言葉は、

きっと、きみを困らせる。


看板を見上げながら、テリィは静かに息を整えた。

この名前が掲げられた瞬間から、この舞台は、もう自分だけのものではない。


期待も、評価も、失望も、すべてが、この名前に向けられる。

逃げ場はない。隠れる場所もない。

(どこかで、きみの耳に届き、ほんの一瞬でも気にかけてくれれば……それでいい)


「……ようやく、ここまで来た」

夜に吸い込まれるように小さな声で呟く。


ここに至るまで、手放したものがある。

傷つけたまま、癒せなかった想いもある。


それでも、この道を生きることはやめなかった。


看板に刻まれた自分の名前を、もう一度、しっかりと目に焼きつける。

誇りよりも先にあるのは、覚悟だ。

この名前で立つ。

この役で、生き切る。

たとえ、見てほしい人が、そばにいなくても。


テリィは静かに背を向け、夜の街へ歩き出した。

風が、ほんの少しだけ冷たく、

それでも確かに、前へ背中を押していた。