昼休みの学院。
鐘の音が遠くに消えると、石造りの校舎の間を抜ける風が、草の匂いを運んでくる。
キャンディが勝手に名付けた場所、
「にせポニーの丘」。
ここは本物の丘ほど広くはないが、学院の敷地の中で、ほんのわずかに“日常から外れた場所”だった。
キャンディは芝生に腰を下ろし、膝を抱えるようにして空を見上げた。
そして、珍しく大きなため息をつく。
「……はあ」
その音に、隣へ腰を下ろしたテリィが、片膝を立てて顔を向けた。
「珍しいな。きみがそんな顔をするなんて」
からかうようでもあり、心配しているようでもある声。
キャンディは視線を落としたまま、小石を指先で転がした。
「もうすぐ、数学とフランス語のテストなの」
「それで?」
「どっちも……あまり得意じゃないの」
言い終わる前に、また小さく息を吐く。
テリィは一瞬だけ考え、そしてほんの少し口元を緩めた。
「なるほど。勉強が進まない顔だ」
「……わかるの?」
「うん。きみはわかりやすい」
テリィはキャンディの気分をあげようと片眉を上げて肩をすぼめる。
「ねえ、テリィ」
「ん?」
キャンディは、少しだけ声を落とした。
「試験……落ちたら、どうしよう」
その不安は、成績だけの話ではなかった。
ウィリアム大おじさまの期待に応えられないかもしれないこと。
自分だけが取り残されるかもしれないこと。
テリィはすぐには答えなかった。
空を見上げ、葉擦れの音を聞いてから、静かに言う。
「……夜、もし0時のころきみの部屋の明かりがついていたら……」
「……え?」
キャンディが顔を上げる。
「俺が数学、教えてやる」
一瞬、言葉の意味が追いつかなかった。
次の瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴る。
「……そんなの、見つかったら大変よ」
「俺を誰だと思ってるんだ。見つからないようにやるさ」
当たり前のように言うその声に、キャンディはうれしいけれど返事はできなかった。
その夜。
ランプの灯りの下で教科書を開きながらも、文字はなかなか頭に入ってこなかった。
外は静かだ。虫の声と、遠くの見回りの足音だけ。
(あんなこと言ってたけど、本当にテリィ来るのかなぁ。……まさかね)
――カツン。
小さな音に、キャンディは顔を上げた。
(……気のせい?)
――コツン。
今度は、はっきりとした音。
窓をそっと開けると、バルコニーの床に、小さな石が転がっていた。
そして、下の方から、囁くような声。
「……キャンディ」
胸が、跳ねた。
身を乗り出して覗くと、暗がりの中に、テリィの姿があった。
「……来たぞ、家庭教師」
「え?……」
キャンディは一瞬だけ迷った。
けれど、考えるより先に言葉が出る。
「早く……入って。見回りが来るわ」
キャンディは慣れた手付きで、すぐにクローゼットに隠してあるシーツで作ったロープをバルコニーに縛り付け、下に垂らす。
あっという間に昇りきり、部屋に入ったテリィは、無駄な動きをせず、すぐ机へ向かった。
教科書を開き、紙を引き寄せる。
「早速始めよう、時間はない。ここだ。まずは、この公式。確か俺の時に出た公式だから、覚えておいて間違いない」
「……ええと……あの……テリィ?」
声を潜める必要があるせいで、自然と距離が縮まる。
肩が触れそうなほど近くで、テリィは紙の上を指でなぞった。
「さ、こうやって考えるんだ」
「あのねテリィ……少し近い気が……」
思わず漏れた言葉に、テリィは気づいたように一瞬止まり、少しだけ距離を取る。
「誤解するな。こうでもしないと外に声が聴こえるだろ。それとも俺に意識しちゃってるとか?」
「ち、違うわよ!こ、小声の意味は、わ、わかってるわ!」」
意味深にからかわれて、キャンディの頬は熱かった。
鼓動が、教科書の内容を押し流してしまう。
それでも、テリィの説明はわかりやすく、式は少しずつ形を成していった。
理解できた瞬間、キャンディは思わず顔を上げる。
「あ、わかった」
「だろ?」
その短いやり取りだけで、胸の奥が満たされる。
同じ机の隣り同士に座り、同じ時間を共有することは初めてだ。
やがて、遠くで足音が聞こえ始める。
「……そろそろ行かないとな」
「うん……ありがとう」
テリィは頷き、窓へ向かう前に一度だけ振り返った。
「次は、フランス語だ」
「……え?」
「詩の訳も苦手と言ってただろ?」
そう言って、彼は静かに夜へ消えていった。
残された部屋で、キャンディはしばらく動けずにいた。
胸に残るのは、試験の不安よりも甘い余韻。
何かが起こったわけではないが、何かが始まった気がする。
にせポニーの丘で零したため息は、
いつの間にか、誰にも言えない期待に変わっていた。