会場に足を踏み入れた瞬間、空気が少しだけ重く感じられた。
遅れて到着した、からではない。
音楽は流れ、グラスの音も、笑い声も、予定通りにそこにある。
それなのに、どこか違和感がある。
名代として立っているはずの場所に、彼女の姿が見当たらない。
(……おかしいな)
彼女は、緊張はしても、責任を放り出すことはない。気分が悪いなら、必ず誰かに伝える。
「ミス・キャンディスは?」
近くのスタッフに声をかけると、少し慌てた表情で答えが返ってきた。
「はいっ!少し……気分が優れないとのことでして、席を外されています」
(席を外す?)
そのとき、別の声が耳に入った。
「……主演俳優が来たんですって!」
「ええ、あのテリュース・グレアムよ、とっても素敵でしたわ」
「まぁ、あの舞台の……?」
ご婦人たちの声。少し浮ついた、興奮混じりのトーン。
違和感が、確信に変わり始める。
アルバートは、足を止めた。
(……もしかして)
事前の報告では、団長と女優だけだった。
主演俳優は来ないと、確かに聞いていた。
キャンディが、この場にいない理由をアルバートは、すぐに判断した。
この空間で、二人が顔を合わせたのだろう。
そして彼女はきっと、ひとりになれる場所を選んだ。
アルバートは、会場を一望してから、静かに踵を返した。
夜会の喧騒は、背後でまだ息づいている。けれど一歩外に出れば、そこは別の世界だった。
風に揺れる草花。足元を照らす低いランプの光。
そして、ベンチに、ひとり座るキャンディの姿。
肩が、わずかに落ちている。どこか芯が抜けたような座り方。
アルバートは、その背中を見ただけで悟った。
(……やっぱり)
彼は、ゆっくりと近づいた。
靴音に気づいたキャンディが、はっと顔を上げる。
「……アルバートさん」
声は、思っていたより落ち着いていた。
それがかえって、胸に刺さる。
「やっと到着したよ」
そう言って、アルバートは彼女の隣に腰を下ろした。
しばらく、どちらも言葉を発さなかった。
庭園の奥で、噴水の水音が低く響く。
アルバートが先に口を開いた。
「名代の役目は……十分すぎるほど果たしてくれたみたいだね、ありがとう」
ねぎらいの言葉。
けれど、アルバートの視線は、彼女の横顔から離れない。
キャンディは、ゆっくりと息を吸った。
「でもごめんなさい、途中で席を外してしまって」
「構わないよ」
即答だった。
「今夜の君に、これ以上“役目”を背負わせるつもりはないからね」
キャンディは小さく目を伏せた。
アルバートは、夜空を仰いだ。
シカゴの空は、都会の灯りに薄く霞んでいる。
「彼は来ないと聞いていたんだ、団長と、オフィーリア役の女優だけだとね」
キャンディの指先が、膝の上でぎゅっと重なった。
「でも……彼が来たんだね」
「うん……」
アルバートは、わずかに苦く微笑んだ。
「皮肉なものだな。距離を保とうとすれば、互いの立場が二人を同じ場所に運ぶ」
キャンディは、唇を噛んだ。
「その顔は“平気”ではなかった……ね?」
「……はい」
「でも、平気なふりをした?」
「……はい」
か細く、認める声。
アルバートは、ゆっくりと彼女のほうを向いた。
「キャンディ。君はまだ彼を大切に思っているね?」
「……」
キャンディは否定しなかった。
「でも同時に、彼の人生を壊したくないと思っている」
「……はい」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「君らしね……」
キャンディの頬を、一筋の涙が伝った。
ただ、静かに。
遠くで、パーティーの音楽が変わった。
そろそろ、戻らなければならない。
アルバートは立ち上がり、キャンディのほうを見下ろした。
「明日、駅まで送るよ」
「……ありがとうございます」
「さぁ、最後挨拶をして、お開きにしよう。今夜はゆっくり休むといい」
アルバートはそれ以上何も言わずに歩き出した。ゆっくりと息を吐き、一瞬だけ思う。
もし、二人がもう少しだけ不器用だったら。
もし、どちらかが正直に弱さを晒すことを選んでいたら。
――結果は、変わっていたかもしれない。
だが、それは仮定にすぎない。
人生に「もし」はない。
彼もキャンディも、大人になった者同士が、
それぞれの人生を引き受けている。
アルバートはキャンディが壊れないように、見守るのが自身の役目だと、改めて静かに誓った。