数日後の午後、診療所に一束の新聞が届いた。
町の雑貨屋が、まとめて仕入れている地方紙だ。
マーチン医師が無造作に机の端へ置いたそれを、キャンディは何気なく受け取り、待合室のラックにしまおうとした。
――そのときだった。
視界の端に、写真が入り込んだ。
一瞬。本当に、ほんの一瞬。
黒い見出し。舞台照明の下に立つ、よく知った横顔。
《テリュース・グレアム、『ハムレット』、今季最高の評価》
《劇団を背負う主演俳優は、今年もブロードウェイの顔に》
キャンディの指が、止まった。
(……だめ)
そう思ったのに、目が勝手に次の行を追ってしまう。
記事の隣。まるで当然のように並べられた、別の見出し。
《彼を支え続ける女性、悲劇を乗り越えた“恋人”スザナ。二人の絆はいまも揺るがない――》
胸の奥が、音もなく沈んだ。
(……ああ)
やっと、わかった。
彼は、もう“戻る場所”があるのだと。
自分ではない場所で、自分ではない人生なのだ。
記事が真実かどうかなど、関係なかった。
世の中がそう語り、記事がそう並び、彼自身が否定しない以上、それは、彼の選択。
キャンディは、新聞を畳んだ。
震えないよう、指に力を込める。
同僚の看護婦が、声をかけた。
「……キャンディ? どうしたの?」
彼女は、少し間を置いて、いつもの笑顔を作った。
「なんでもないわ。次の患者さん、呼んでいい?」
それ以上、誰も何も聞かなかった。
その夜、キャンディは自室に戻ると、机の引き出しを開けた。奥のほうに、古い封筒がある。
宛名は、書かれていない。
切手も貼られていない。
一度だけ、本当に一度だけ、彼に出そうとした手紙。
エレノアから届いた招待券のその隣で、震える手で書いた文字。
《おめでとう》《戻れて、よかった》《あなたは、やっぱり舞台に立つ人です》
そして最後に、消せなかった一文。
“テリィ、大好きでした”
過去形にしなければ、前に進めないと思った。
そして、出すつもりはなかった。
記事の隣に並んだ、スザナの名前を見たとき、その資格が、自分にはないと思った。
彼には、恋人がいて、彼は、幸せなのだ。
そう信じなければ、自分が壊れてしまうから。
キャンディは、便箋をそっと畳み直し、再び引き出しの奥へ戻した。
「……これでいいの」
あのときと、同じ言葉を、もう一度。
ベッドに横になっても、眠れなかった。
シカゴの庭園。夜風。彼の声。
「今……きみは幸せ、なのか?」
問いかけが、今になって、別の意味を持つ。
(あれは……)
自分を試す言葉ではなく、
引き留めるための言葉でもなかった。
ただ、“信じたかった”のかもしれない。
彼が選んだ道が、
互いが選んだ距離が、
私を壊していないかどうか。
それに気づいた瞬間、キャンディは、そっと目を閉じた。
キャンディは、ゆっくりと起き上がり、窓を開けた。
夜の空気が、冷たく頬に触れる。
私は……彼を忘れられていない。
それを、ようやく認めるしかなかった。
でも、もう二度と交わらないことは知っている。
キャンディは、胸の前で、そっと手を組んだ。
「……どうか」
祈りは、声にならない。
あなたが選んだ人生が、
あなた自身を救っていますように。
たとえその隣に、私の居場所がなくても。
窓を閉め、灯りを落とす。
ポニーの家の鐘が、静かに夜を告げる。
それでもまだ彼女は揺れている。
でも、立つしかない。
それでいい。
この揺れを抱えたまま、彼女はまた、朝を迎える。
そしてこの夜もまたこの気持ちは、誰にも送られない手紙の一部として、心の奥にしまわれていくのだった。