シカゴから戻った翌朝、村はいつもと同じ顔をしていた。
朝霧が低くたれ込み、牧草地の向こうで鶏が鳴く。
ポニーの家の教会の鐘は、変わらず同じ時刻に鳴った。
それなのにキャンディだけが、世界とほんの少しずれていた。
ハッピー・マーチン診療所。
消毒薬の匂い。白衣の擦れる音。患者を呼びこむ声。
すべてが慣れ親しんだはずなのに、彼女の意識は、何度も遠のいた。
包帯を巻きながら、手元が止まる。
薬瓶を戻そうとして、違う棚に置きかける。
カルテの文字を、間違える。
「……キャンディ?どうかしたの?」
同僚の看護婦が声をかけると、彼女ははっとして顔を上げた。
「ごめんなさい。なんでもないわ……」
「いいのよ。疲れてるのね」
笑ってごまかしたが、その笑顔がいつもより遅れて浮かぶことを、彼女自身が一番よくわかっていた。
夕方、ポニーの家に戻ると、子どもたちが駆け寄ってくる。
「キャンディ!」
「今日ね、子ヤギが柵から出ちゃって!」
無邪気な声に、胸が少しだけ軽くなる。
けれど、話を聞きながらも、視線は遠くを彷徨ってしまう。
ふと、子どもの髪を撫でる手が止まる。
黒のタキシード。
照明を背に立つ姿。
低く、震えた声で呼ばれた名前。
(……だめ)
心の中で、小さく首を振る。
食卓の準備を手伝いながらも、塩を入れすぎてしまい、ポニー先生が気づいてさりげなく取り替えた。
「アードレーさんの代わりですもの、さすがに疲れたのね、キャンディ」
「ええ、少し」
それ以上は、聞かれなかった。
夜。子どもたちが眠り、ランプの灯りが静かに揺れる。
キャンディは教会の長椅子にひとり座っていた。
膝の上で、手を組む。
いつもより、祈りが長くなる。
「……神さま」
声は、震えていた。
「私……ちゃんと、できているでしょうか」
何を、とは言わない。
でも胸の奥では、答えがわかっている。
“ちゃんと忘れられているか”
“ちゃんと前を向いているか”
答えは、シカゴの庭園で、もう出てしまっていた。
(……私も追いかけていた)
言葉を交わしてはいけないと知りながら、
視線を、心を、止められなかった。
長い沈黙のあと、キャンディは小さく息を吸った。
「……会わなければ、守れたのに」
何を?
自分を。
彼を。
あの夜まで、かろうじて保っていた均衡を。
祈りの言葉は、途中でほどけた。
代わりに、涙が静かに落ちる。
数日が過ぎても、キャンディは完全には戻らなかった。
診療所では、仕事はこなすが、どこか上の空。
ポニーの家では、笑っているが、ふと遠くを見る。
子どもが「キャンディ?」と呼ぶと、
一瞬遅れて「なあに?」と返す。
その夜、キャンディは、久しぶりに日記を開いた。
書くつもりはなかった。
でも、手が勝手に動いた。
会ってしまった。
まだ、終わっていなかった。
終わらせようとしていただけだった。
書き終えたあと、そっと閉じる。
(……でも)
心の奥で、別の声がする。
(それでも、私はここにいる)
彼女は、村に戻ってきた。
逃げなかった。
仕事をやめなかった。
誰かを責めなかった。
それだけで、十分だと、自分に言い聞かせる。
夜更け、窓辺に立ち星を見上げる。シカゴと同じ星空が、ここにも広がっている。
「……テリィ」
名前を呼ぶのは、心の中だけ。
彼は、舞台に立っている。
自分は、ここで生きている。
交わらない道。
それでも、消えない想い。
キャンディは、胸にそっと手を当てた。
壊れてはいない。
ただ、深く揺れただけだ。
その揺れを抱えたまま、彼女はまた、明日を生きる。
ポニーの家の鐘が、静かに夜を告げていた。