朝から、診療所は慌ただしかった。

流行り風邪が一気に広がり、待合室には人が溢れている。

子どもを抱えた母親、腰をさすりながら順番を待つ老人、そして、顔色の悪い男たち。

キャンディは処置室と待合を行き来しながら、

自分の呼吸が少しだけ早くなっているのを感じていた。

「次、三番の方お願いします」

そう声をかけたとき、

診察室の扉がきしりと音を立てて開く。

クインだった。

白衣の袖を肘までまくり、額にわずかに汗を浮かべている。

「……大丈夫ですか?」

「平気だよ。少し、立て込んでるだけで」

そう言う声に、疲れは滲んでいたけれど、焦りや苛立ちはなかった。

それが、余計に胸に残る。

(……この人、ほんとに医師に向いてる)

そう思ってしまう自分が、少し怖い。


昼過ぎ、ようやく一息ついたころ。

キャンディは処置室で包帯を巻き直していた。

「さっきの子、泣き止んだよ」

「ほんと?良かったー」

「キャンディの声かけが良かったからだと思うよ」

忙しさの中でも、丁寧に接しようとキャンディが常日頃掲げているテーマでもある。

大胆な称賛ではないが、認められた気がして、なぜだか、涙が出そうになる。

(……こんなふうに)

こんなふうに、一緒に働いて、互いの動きを理解して、無言で支え合って。

(これが、日常なんだ)

ふと、頭をよぎる。

もし。もし、この日々が続いたら。

朝、同じ時間に起きて。

仕事の愚痴を言い合って。

疲れた日は、無言で食事をして。

眠る前に、今日あったことを少しだけ話す。

そんな未来が、無理なく、自然に、想像できてしまう。

その瞬間――キャンディの胸が、きゅっと締めつけられた。

(……あ)

なぜか、思い出してしまった。

舞台の幕が下りる音。拍手。照明。観客の熱。

遠くて、眩しくて、触れられなかった世界。

同じ人を想っていたはずなのに、

立っている場所が、あまりにも違ってしまった。

(……違う)

キャンディは、首を振る。

今、ここにあるのは現実だ。

手を伸ばせば届く、生活だ。

「キャンディ?」

呼ばれて、顔を上げる。

「顔、険しいけど?」

「……そんなこと」

「無理しなくていいよ」

そう言って、クインは少しだけ距離を縮めた。

近い。けれど、触れない。その距離が、優しい。

「今日は……忙しかったから、きっと疲れたんだな」

「そうね少し、だけ」

「なら、帰り、何か食べていこうか」

誘いは、静かだった。

押しつけでも、期待でもない。

ただ、隣に並ぶ提案。

「……はい」

気づいたときには、キャンディは、そう答えていた。

(……楽だ)

一緒にいることが、考えなくていい。

それが、こんなにも心を軽くするなんて。

(それなのに)

なぜだろう。胸の奥で、ずっと、消えない名前がある。

安心できる人の隣で、安心できない記憶が、顔を出す。

それは、後ろめたさだった。

幸せになれてしまうことへの、小さな罪悪感。


クインは、気づいていない。

キャンディの中に、まだ、別の誰かがいることを。

でも――気づかないままでいてほしいと、どこかで願っている自分もいる。

(……ずるい)

そう思いながらも、キャンディは、その日、彼と並んで歩いた。


夕暮れの村は静かで、空は、やけに澄んでいた。

呼吸が、合う。

それが、こんなにも心を揺らすことを、

キャンディはまだ、言葉にできなかった。