午後の診察が終わり、診療所に静けさが戻ったころだった。
キャンディは流し台で器具を洗いながら、
自分でも理由のわからない落ち着かなさを持て余していた。
水音だけが、やけに大きく聞こえる。
「それ、俺もやりますよ」
背後から声がして、思わず肩が跳ねる。
振り返ると、クインが袖をまくりながら立っていた。
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、拭く係で」
勝手に役割を決めて、彼は濡れた器具を受け取る。
そういうところが、少しずるい。
断る隙を与えないのに、押しつけがましくはない。
並んで立つ距離が、近い。
(……近いな)
そう思った瞬間、キャンディの胸の奥が、かすかに波立った。
それは嫌な感じじゃなかった。
むしろ、拍子抜けするほど自然で、だからこそ、心がざわついた。
「キャンディスさんって」
クインがふいに言う。
「人の話を聞くとき、ちゃんと目を見ますよね」
「……目?」
「目が逃げない。誤魔化しがきかないって感じ」
そう言って、軽く笑う。
その横顔を見たときだった。
一瞬、ほんの一瞬だけ――別の人の姿が、重なった。
低い声。少し皮肉めいた笑い方。
真正面から向き合うときの、あの目。
(……やめて)
キャンディは、内心で自分を叱った。
違う。全然、違う。
似ているなんて思うほうがおかしい。
あの人は、遠い。もう、届かない。
ブロードウェイで名を上げていく俳優と、
インディアナの小さな診療所で働く自分。
距離なんて、比べるまでもない。なのに。
「どうしました?」
クインの声に、はっとする。
「いえ、なんでも」
「ほんとに?」
問い詰める口調ではない。
ただ、気にしているだけの声。
それが、余計に心に触れる。
(……似てるんじゃない)
キャンディは、心の中で言い聞かせる。
似ているのは、
自分がまだ、忘れきれていないだけ。
クインはクインだ。
優しくて、少し不器用で、人をまっすぐに見ようとする人。
テリィとは、違う。
そう、違うはずなのに。
「……この仕事、好きですか?」
不意に、クインが尋ねた。
「え?」
「看護婦の仕事」
少し考えてから、キャンディは答える。
「……好きです。簡単じゃないけど」
「そういう答え、いいですね」
彼はそう言って、手を止めた。
「俺、医者になるの、遅かったから」
「?」
「だから、ちゃんと“ここにいる”人の顔を見るって、決めてて」
その言葉が、胸に残る。
(ここに、いる)
昔、同じような言葉を、誰かが言っていた気がした。
それが誰だったか、思い出したくなくて、
キャンディは視線を落とした。
楽しい。
それが、怖かった。
初めて会った人といるのに、気を張らなくていい。
無理に笑わなくていい。
心の中で、苦笑する。
こんなの、勘違いだ。
そうに決まってる。
でも――
それでも。
キャンディはまだ知らなかった。
この「似ていると思ってしまった一瞬」が、
これから何度も、胸の奥で繰り返されることを。
それが、
忘れられない人への未練なのか、
それとも、新しい未来への入り口なのか。
このときの彼女には、まだ、区別がつかなかった。