診療所の夕方は、いつも少しだけ音が少ない。
昼の喧騒が引き、外では風が木々を揺らし、
待合室には、使い込まれた椅子と古い時計の音だけが残る。
キャンディは、薬棚の前で立ち止まっていた。
ラベルを確認する指が、ほんのわずかに遅れる。
「……疲れてる?」
背後から、クインの声。
振り返ったキャンディは、すぐに微笑もうとして、やめた。
「まあ……少し、だけ」
それ以上は言えない、というより、言葉がまだ形になっていない。
クインは、それ以上踏み込まなかった。
だが、その沈黙が、答えに近いことはわかってしまう。
◇
閉院後。帳簿をまとめ終えたキャンディが、椅子に腰を下ろした。
「……ヘイル先生」
呼ばれて、彼は顔を上げる。
「なに?」
「少し……話してもいい?」
その言い方が、“業務ではない”ことをはっきり示していた。
クインは、無言で頷く。
◇
「私……」
キャンディは、言葉を探すように、膝の上で指を組んだ。
「最近、自分がよくわからなくて」
クインは、何も言わない。
遮らない。医師としてではなく、人として。
「毎日が忙しくて……それは、ありがたいことなんです。でも……」
少し、息を整える。
「笑っているつもりでも、どこかで、置いてきたままの気持ちがあって」
クインの胸が、静かに痛んだ。
(……やっぱり)
「忘れられない人、がいるんです」
その言葉は、重くもなく、軽くもなく、ただ事実として落ちた。
「昔の人です。もう、どうにもならないって、わかってる。それでも……」
キャンディは、視線を落とす。
「“終わった”って言い切るほど、強くなれなくて」
クインは、ゆっくり息を吐いた。
「……それで、最近俺といるとき表情が冴えない?」
キャンディは、首を振った。
「そういうわけじゃないんです。ただ……先生にその人と似てるところを見つけるたびに……自分が、卑怯だなって思ってしまって」
クインの指先が、わずかに動く。
「似てる?」
「……雰囲気とか」
キャンディは、苦笑した。
「仕草や笑い方、とか」
沈黙。それだけで、十分だった。
クインは、はっきり理解した。
自分は“選ばれない”存在なのではない。
もっと厄介な位置にいる。
過去と現在の、あいだ。
「……正直に話してくれて、ありがとう」
クインは、そう言った。
声は穏やかだったが、その奥で、何かが静かに決まっていく。
「俺は……」
言いかけて、やめる。
キャンディが顔を上げる。
「なにか、言いかけた?」
「いや」
クインは、軽く首を振った。
「今は、いい」
今言えば、それは“自分のための言葉”になってしまう。
彼女のためではない。
◇
帰り際。玄関で、キャンディが足を止める。
「ヘイル先生」
「うん?」
「……私、誰かの代わりとして、誰かを好きになるのは、嫌……なの」
クインは、微かに笑った。
「それでいい。それが普通だよ」
その言葉は、励ましでも、慰めでもなく、選択の肯定だった。
◇
キャンディが去ったあと、診療所にひとり残ったクインは、椅子に腰を下ろした。
(俺は……この人の笑顔が戻らない理由に、なりたくない)
それだけは、はっきりしていた。
好きにな気持ち、それは事実。
でも、好きだからこそ、身を引くという道があることを彼は初めて感じた。
まだ答えは出ていない。
ただ、胸の奥に、ひとつの覚悟の影が落ち始めていた。