診療所の夕方は、いつも少しだけ音が少ない。

昼の喧騒が引き、外では風が木々を揺らし、

待合室には、使い込まれた椅子と古い時計の音だけが残る。

キャンディは、薬棚の前で立ち止まっていた。

ラベルを確認する指が、ほんのわずかに遅れる。

「……疲れてる?」

背後から、クインの声。

振り返ったキャンディは、すぐに微笑もうとして、やめた。

「まあ……少し、だけ」

それ以上は言えない、というより、言葉がまだ形になっていない。

クインは、それ以上踏み込まなかった。

だが、その沈黙が、答えに近いことはわかってしまう。




閉院後。帳簿をまとめ終えたキャンディが、椅子に腰を下ろした。

「……ヘイル先生」

呼ばれて、彼は顔を上げる。

「なに?」

「少し……話してもいい?」

その言い方が、“業務ではない”ことをはっきり示していた。

クインは、無言で頷く。




「私……」

キャンディは、言葉を探すように、膝の上で指を組んだ。

「最近、自分がよくわからなくて」

クインは、何も言わない。

遮らない。医師としてではなく、人として。

「毎日が忙しくて……それは、ありがたいことなんです。でも……」

少し、息を整える。

「笑っているつもりでも、どこかで、置いてきたままの気持ちがあって」

クインの胸が、静かに痛んだ。

(……やっぱり)

「忘れられない人、がいるんです」

その言葉は、重くもなく、軽くもなく、ただ事実として落ちた。

「昔の人です。もう、どうにもならないって、わかってる。それでも……」

キャンディは、視線を落とす。

「“終わった”って言い切るほど、強くなれなくて」

クインは、ゆっくり息を吐いた。

「……それで、最近俺といるとき表情が冴えない?」

キャンディは、首を振った。

「そういうわけじゃないんです。ただ……先生にその人と似てるところを見つけるたびに……自分が、卑怯だなって思ってしまって」

クインの指先が、わずかに動く。

「似てる?」

「……雰囲気とか」

キャンディは、苦笑した。

「仕草や笑い方、とか」

沈黙。それだけで、十分だった。

クインは、はっきり理解した。

自分は“選ばれない”存在なのではない。

もっと厄介な位置にいる。

過去と現在の、あいだ。

「……正直に話してくれて、ありがとう」

クインは、そう言った。

声は穏やかだったが、その奥で、何かが静かに決まっていく。

「俺は……」

言いかけて、やめる。

キャンディが顔を上げる。

「なにか、言いかけた?」

「いや」

クインは、軽く首を振った。

「今は、いい」

今言えば、それは“自分のための言葉”になってしまう。

彼女のためではない。



帰り際。玄関で、キャンディが足を止める。

「ヘイル先生」

「うん?」

「……私、誰かの代わりとして、誰かを好きになるのは、嫌……なの」

クインは、微かに笑った。

「それでいい。それが普通だよ」

その言葉は、励ましでも、慰めでもなく、選択の肯定だった。



キャンディが去ったあと、診療所にひとり残ったクインは、椅子に腰を下ろした。

(俺は……この人の笑顔が戻らない理由に、なりたくない)

それだけは、はっきりしていた。

好きにな気持ち、それは事実。

でも、好きだからこそ、身を引くという道があることを彼は初めて感じた。

まだ答えは出ていない。

ただ、胸の奥に、ひとつの覚悟の影が落ち始めていた。