ストラトフォードの朝は、ロンドンよりも静かだった。
霧が低く庭を覆い、別荘の石壁はしっとりと冷たい。
稽古へ向かう支度をしていたテリィのもとへ、通いの使用人が声をかけた。
「旦那様、お荷物が届いておりますが……」
「荷物?」
心当たりはない。テリィは首を傾げながら玄関へ向かった。
そこには、見覚えのあるトランクが二つ。淡い色の布製で、角に小さな補修跡がある。
「これ……」
手を伸ばした瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
(まさか)
中を開けると、見慣れたスカーフ。丁寧に畳まれたブラウス。
子どもたちが縫い付けた小さな刺繍入りのハンカチ。
「……キャンディ?」
名前を口にした途端、思わず笑ってしまった。
(何も聞いてないぞ)
稽古の予定を思い出す。今日は昼過ぎまで。
だが、この荷物が意味することは――。
テリィはトランクの縁に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
翌日の午後。
稽古を終え、別荘へ戻ったテリィは、玄関で足を止めた。
扉の前に、見覚えのありすぎる後ろ姿がある。
外套を脱ぎかけ、使用人と話している女性。
金色の髪が、ストラトフォードの淡い光を受けて揺れていた。
「……キャンディ」
名前を呼ぶより先に、体が動いた。
振り向いた彼女は、一瞬きょとんとして――次の瞬間、ぱっと笑った。
「おかえりなさい、テリィ」
「来たのか?」
「うん」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「……聞いてないぞ」
「手紙送ったわ、でも私が先に着いちゃった!」
悪びれない声。それがまた、たまらなく愛おしい。
テリィは何も言えず、ただ彼女を抱き寄せた。
強く、けれど確かめるように。
「……びっくりするだろ」
「ごめん。でも――」
キャンディは彼の胸に頬を寄せた。
「やっぱり、あなたのそばにいたくて」
その言葉に、テリィの喉が詰まる。
夜、暖炉の前。
キャンディはゆっくりと話した。
子どもたちに、きちんと説明したこと。
「おとうさんの仕事が大事な時期で、少しの間、近くで支えたい」と。
オリヴァーは少し考えてから、真面目な顔で言ったらしい。
「じゃあ、ぼくがオスカーの面倒、もっと見るよ」
オスカーはただ、「ママ、すぐ帰ってくる?」と聞いてきた。
「もちろん。終わればおとうさんも一緒よ」
義父である公爵には、正直に話した。
ロンドンには定期的に戻ることや、
そして
「それでも、今は夫のそばにいたいのです」
公爵は少し黙ってから、短く言った。
「それでいい。家族とは、そういうものだ」
テリィは聞きながら、何度も息を吐いた。
「ちゃんと考えて来たんだな」
「うん。でもね」
キャンディは照れたように笑う。
「一番の理由は、単純」
「?」
「離れてるの、やっぱり嫌だったの」
テリィは思わず苦笑した。
「俺もだ」
別荘の夜は深い。
窓の外には星が少なく、代わりに闇が満ちている。
二人は同じソファに並び、肩を寄せていた。
「ここに来て、稽古の邪魔にならない?」
「なるわけない」
即答だった。
「むしろ……」
テリィはキャンディの手を握る。
「きみがいるのがいつもの環境だよ。いないほうが不自然だ」
キャンディは小さく笑って、その手を握り返した。
「良かった、あなたの舞台を支えられるのはとてもうれしいもの」
「きみには感謝してる」
間髪入れずに言って、テリィは少し照れた。
キャンディは微笑むと、そっと額を彼の肩にもたれかかる。
暖炉の火が静かに揺れ、瀟洒なこの家は、稽古場と舞台の緊張とは別の、確かな温度があった。
テリィは心の中で、そっと思う。
(……この人がそばにいるなら。どんな役でも、生きられる)
そしてキャンディもまた、同じように感じていた。
一緒にいる時間はとても尊いものだと。