その夜、店は少しだけ静かだった。マスターは近くの寄り合いに顔を出すと言って、閉店までは戻らないと告げていた。カウンターの内側には、テリィと、もう一人の年上の男性ウェイター。そしてホールのクレアだった。

会員制の店とはいえ、夜が深くなるにつれて、客の気分は必ずしも上品ではなくなる。アルコールは、人の輪郭を緩める。言葉も、距離感も。最初は、ほんの些細なことだった。

席を立つときに肩が触れた。視線が合った。どちらかが、冗談めかして笑った。次の瞬間、その笑いが、刃に変わる。

「なんだ、その態度は」

低い声。それに応じるように、もう一人が立ち上がる。空気が、張り詰めた。

「失礼しました。こちら、落ち着いていただけますか」

間に入ったのは、クレアだった。声は震えていない。トラブルを大きくしないことが最優先だと、彼女は理解していた。

「お飲み物を変えましょうか?少し外の空気を——」

その言葉の途中で、男の腕が乱暴に振り払われた。

「女が口出すな」

一歩、距離が詰まる。次の瞬間、クレアの手首が、強く掴まれた。

「やめろ」

低く、だがはっきりした声が割り込んだ。テリィだった。カウンターの内側から出て、男とクレアの間に立つ。掴まれていた手首を、無理のない動きでほどく。

「この店では、誰にも手を出させない」

声を荒げず、だが、目だけは逸らさない。男は一瞬、言い返そうとしたが、テリィの視線に、言葉を失った。もう一人のウェイターが、素早く客を席に戻し、店は、何事もなかったように静まった。クレアは、その場で息を吐いた。

「……ありがとう」

「無茶をするな」

テリィは、それだけ言って、すぐにカウンターへ戻った。でも、クレアの胸は、ひどく騒がしかった。もう諦めたはずだった。そう、思っていた。それなのに。助けに入る背中を、一度見てしまったら。簡単に、気持ちなんて終われない。


数日後。閉店後の店で、テリィはグラスを片づけながら言った。

「しばらく、ここを休むから」

クレアは、手を止めた。

「……どれくらい?」

「わからない。チャリティー公演の稽古が、本格的に始まるんだ」

その言葉で、理由は十分だった。

「……そう」

クレアは、笑った。けれど、それは仕事用の表情ではなかった。逃したら、もう、言えない。そんな予感が、はっきりと胸にあった。背中越しに呼びかける。

「ねえ、テリュース。少し、話せる?」

テリィは、一瞬迷ったあと、頷いた。店の灯りを落とし、カウンターに二人だけが残る。夜のニューヨークが、窓の外で呼吸している。

「……前に、聞いたこと、覚えてる?」

クレアは、正面から彼を見る。

「私ね、一度は諦めたつもりだった」

声が、少し揺れる。

「でも、あの夜……助けてくれたとき。やっぱり、無理だって思った。……好きなの。あなたが」

はっきり言った。テリィは、すぐに答えなかった。

「……ありがとう。だが——」

「わかってる」

クレアは、少しだけ強く言った。

「あなたには、好きな人がいる。でも、それって本当?」

一歩、踏み込む。

「実在するの?それとも、断るための言い方?」

沈黙。だが、クレアのほうが先に破った。

「……ねえ、本当にいるの?」

声は低い。先ほどまでの勢いを抑えた分だけ、その問いは、逃げ道を塞ぐ。

「“いる”って言葉、便利よね。誰も確かめられない」

テリィは何も言わない。それを、肯定とも否定とも取れる沈黙で受け取る。

「顔も知らない。名前も聞けない。それなのに、私はもう何度も“負けた”って言われてる」

クレアは一歩、距離を詰めた。

「それ、本当に実在する人?」

詰問に近かった。

「それとも……あなたが誰とも始めないための言い訳?」

テリィの肩が、わずかに動いた。

「違う」

即座だった。それが、火をつけた。

「じゃあ、どんな人なの」

クレアは逃がさない。

「性格は?年は?この街にいる?」

いつもなら、ここで口を閉ざす。けれど、この夜は違った。昼間、スザナの車椅子を押しながら、窓の外を見ていたとき。ふと、胸に浮かんだ顔があった。その余韻が、まだ、ここに残っている。

「……遠い」

気づけば、そう言っていた。クレアが息を止める。

「遠い、って?」

「今は、同じ場所にいない」

言葉が、止まらない。

「でも……どこにいても、その人が見ている景色は想像できる」

テリィは、視線を落としたまま続ける。

「不器用で、自分のことより人のことを先に考える」

それは、少しだけ困ったような声だった。

「だから、放っておけないんだ」

クレアは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

「あなたが……そんな顔で語る人?」

テリィは、ようやく顔を上げた。

「強い人……簡単に折れない。でも、泣くときは、ちゃんと泣く」

無意識だった。語りすぎていると、自分でもわかる。それでも、止められない。

「あいつが笑うと、場が明るくなる。……いつのまにか、俺も笑ってる」

クレアは、苦く笑った。

「それ、もう、恋してる人の話し方よ」

テリィは、はっとしたように口を閉じた。しばらくして、低く言う。

「……だから、始められない。……誰かと、始める気になれない」

それは、拒絶ではなく、誓いに近かった。

「その人が、どこにいようと、今、どうしていようと、この気持ちは、渡せないんだ」

クレアは、長い息を吐いた。

「……なるほど」

負けた、と言うには、あまりにもはっきりした敗北だった。

「顔も知らないのに、こんなに具体的だなんて」

自嘲気味に笑う。

「勝てるわけないわね」

テリィは、何も言わなかった。言えることは、もう、すべて言ってしまった。クレアは、少しだけ背筋を伸ばす。

「教えてくれて、ありがとう」

「……すまない」

首を振る。

「いいの。あなたが黙らないでくれたから」

夜は、静かに更けていく。

テリィの頭の中には、はっきりとした笑顔が浮かんでいた。名前を呼べない、けれど、確かに存在する人。

その人を思うたび、彼は少しだけ、饒舌になる。それが、誰にも奪えない答えだった。