1918年・ニューヨーク

夜のニューヨークは、昼よりもずっと饒舌だ。灯りは多く、音楽は途切れず、人の声は交差する。

それでも、本当に大切な感情だけは、胸の奥にしまったまま歩ける、そんな街だった。

会員制のこのバーも、そういう場所のひとつだ。

客席の奥で、ピアノが低く鳴っている。主張しない旋律。誰かの会話や、沈黙の邪魔をしない夜の音。

テリィはカウンターの内側で、グラスを磨いていた。このバーはテリィがアルバイトをしている店。

稽古帰りの夜もあれば、そのままスザナを送ってから立ち寄る夜もある。

来られない日も多いが、それを咎める者はいなかった。

マスターは、芝居という仕事が、約束どおりに進まないものだと知っている。

「今日は、早いのね」

少し弾んだ声で言ったのは、クレア・ウィンストンだった。

テリィよりわずかに早く、この店で働き始めた同い年の女性。

「ああ。稽古が短かった」

短く答えて、テリィは手元に視線を落とす。

「ふうん。珍しい」

クレアはそう言って、わざとらしく覗き込む。

「なに?」

「別に。今日のあなた、ちょっと余裕ありそうだなって」

テリィは答えず、グラスを磨き続ける。

だが、否定もしなかった。

クレアは、その沈黙を「拒絶」とは受け取らない。

むしろ、少しだけ距離を許された証拠だと知っている。

「ねえ、稽古って毎日そんなに大変?」

「……日による」

「答え、雑」

「正直に言っただけだ」

そのやり取りに、クレアはくすっと笑う。

テリィは気づいていないふりをしているが、彼女の視線が自分を追っていることには、とうに気づいていた。

だからこそ、声の調子を崩さず、余計な冗談を言わず、踏み込ませすぎない。思わせぶりにならないために。

テリィが来ない夜。

「今日は?」

クレアは、マスターの隣で聞いた。

「来ないよ」

「……忙しい?」

「そういう仕事だ」

「ですよね」

それ以上は聞かない。

けれど、聞かないことと、気にしないことは違う。

クレアはグラスを磨きながら思う。

(この人、ここにいてもどこか、別の場所を生きてる)

それが、少し悔しくて、でも、やっぱり惹かれてしまう理由だった。


数日後の夜。

カウンターの端に置かれた新聞を、クレアが手に取った。

「ねえ、これ」

紙面には、チャリティー公演の制作発表の記事。

写真の端に、見覚えのある横顔。

「あなたでしょ?」

テリィは一瞬だけ目を向け、すぐに視線を戻した。

「ああ」

「すごいじゃない」

「まだ、何も始まってない」

その声は、少し硬かった。

クレアは新聞を畳み、今度はテリィの顔を見る。

「でも、ちゃんと進んでる」

それは、慰めでも煽りでもない言葉だった。

少し間があって、クレアは息を整える。

「……ねえ、さ」

「ん?」

ここから先は、聞いてしまえば、戻れない。

それでも、知りたかった。

「テリュースには好きな人、いる?」

ピアノの音が、ふっと遠のいた気がした。

テリィはすぐに答えなかった。

曖昧に流すことも、冗談でかわすこともできた。

けれど、彼は逃げなかった。

「いる」

短く、はっきり。クレアは一瞬、息を止める。

「……そのひとは恋人?」

「違う」

「じゃあ、可能性は?」

少し、踏み込む。

テリィは、視線を落としたまま答える。

「今、誰かと始めるつもりはない」

それは、拒絶ではない。

でも、期待も許さない言葉だった。

クレアは、ゆっくりと笑った。

「やっぱり」

「?」

「あなた、そういう人だと思ってた」

少し残念そうで、それでも、どこか納得した声。

「聞いてよかった」

「……ごめん」

「いいの」

首を振る。

「曖昧にされるより、ずっといい」

クレアは、もう一歩踏み込まなかった。

それ以上は、彼の大切なものを踏み越えるとわかっていたから。

テリィは、初めて彼女をまっすぐ見た。

彼女は、告白しなかった。期待を押し付けなかった。ただ、知ろうとしただけだった。

彼の胸には、名前を呼ばない誰かがいる。

今ここにいなくても、触れられなくても、決して揺らがない存在。

ピアノが、再び夜を満たす。

テリィは二十一歳。まだ何者でもない。

それでも、誰かの好意に甘えないという選択だけは、もう、はっきりと身につけていた。