春の風が、マーチン診療所の窓を軽く叩いていた。

午前の診察がひと段落し、キャンディは処置室で器具の片付けをしていた。


「今日から研修医が来るって話でしたよね?」

別の看護婦がそう言ったのと、ほぼ同時だった。

玄関のほうが、少しだけ騒がしくなる。

背の高い青年が、コートを腕にかけたまま中へ入ってきた。


黒に近い茶色の髪。

落ち着いた服装なのに、どこか気取らない雰囲気。

医師らしい緊張感よりも、先に“人”としての空気が伝わってくる。


「シカゴ医大から来ました、クイン・ヘイルです。今日からお世話になります」

マーチン診療所では、毎年春になると決まって研修医がやって来る。

シカゴ医大をはじめ、いくつかの医学校と提携しており、

「僻地医療を学ぶなら、まずここで」と推薦される場所でもあった。

設備は決して最新ではなく、人手も潤沢とは言えない。

だが、村人の暮らしに寄り添い、限られた条件の中で命を守る。

その現場こそが、机上では学べない医療を教えてくれる。


キャンディにとっては、もう見慣れた光景だった。

白衣にまだ少し硬さを残した若い医師が、最初は戸惑いながら、やがて診療所の空気に馴染んでいく。

(今年も、そういう季節なんだな)

そう思いながら、彼女は新しく来た『研修医クイン・ヘイル』の横顔を、何気なく見やった。


マーチン先生が簡単に紹介をすると、

クインは診療所の中を一度、ぐるりと見渡した。

そして、なぜか、迷いなくキャンディの前で足を止める。

「……」

一拍の沈黙。

キャンディが「よろしくお願いします」と言おうとした、その前に。

「名札見なくても覚えました。そばかすの看護婦さんですね?!」

さらり、と。

まるで天気の話でもするような口調だった。


「……は?」

キャンディは思わず眉をひそめる。

「それ、初めて会う人へ言う言葉ですか?」

「いや、すみません。先に口が動きました」


クインは慌てた様子もなく、少し困ったように笑った。

「覚えやすかったもので。悪い意味じゃないです」

「大体、そんな呼び方――」

「あ、距離、間違えましたね。完全に」


軽く両手を上げてそう言うその態度に、

本気で怒るのも、なぜか馬鹿らしくなる。


(……なに、この人)

失礼なはずなのに、刺々しさがない。

むしろ、昔から知っている相手みたいな距離感。


キャンディは小さく息をつき、名札を指で叩いた。

「キャンディスです。ちゃんと名前、あります」

「キャンディス……なるほど」


クインは一度だけ頷いた。

「でも、そばかすの看護婦さんって、間違えない気がする」

「それは、使わないでください!」

「わかりました、善処します」


そう言いながら、もう一度だけ笑う。

その笑顔を見た瞬間、

キャンディの胸の奥で、かすかに何かが揺れた。


(……なんでだろう)

からかわれているだけのはずなのに。

懐かしいような、困るような感覚。


クインのほうも、内心では舌打ちしていた。

(しまったな……)

初対面で、言い過ぎた。

なのに、なぜか抑えられなかった。


目の前の彼女が笑ったら、どんな顔をするのか。

それを無意識に想像してしまったことに、クイン自身が気づいていない。

距離が近すぎてしまったと、そう分かっていても、

もう引き返せない一歩を、踏み込んでしまった気はしていた。


春の診療所に、まだ名前のついていない感情が、静かに入り込んだ朝だった。




研修医クイン・ヘイン

©️Candy Candy Fun Art by Rokiso