アードレー財団主催の記念パーティー。会場となったホテルの大広間では、シカゴ財界の名士たちが集い、音楽とグラスの音が静かに溶け合っていた。
キャンディは、緊張した面持ちで立っていた。
アードレー家総長のアルバートの名代として、財界人たちと挨拶を交わすためだ。
「アードレー総長は……?」
「遅れております。代わりに私が──」
明るく答えてはいたが、胸の奥ではこんな場に私が立っていいのだろうかという迷いが渦巻いていた。ちょうどそのとき、入口近くがざわめいた。
「ストラスフォード劇団のロバート団長と……主演俳優、テリュース・グレアム氏です!」
ざわっ、と空気が揺れた。
キャンディの心臓が、一瞬止まった。
顔を上げたくなかった。でも上げてしまった。
照明の光を背に、黒のタキシード姿の男が歩いてくる。その姿は記憶の中の少年よりも鋭く、ニューヨークでの輝きよりも遥かに深く強くなっていた。
(テリィ……?)
その名を胸の中で呼んだ瞬間、周囲の喧騒がすべて遠のいた。
テリィもまた、キャンディを見つけた瞬間、歩みを止めた。
瞳が、驚きと、痛みと、どうしようもないほどの懐かしさに揺れた。
二人は言葉を失い、ただ見つめ合った。
会場のざわめきも、音楽も、呼吸の音さえ聞こえなくなる。
もう二度と会わないと思っていた。
会ってはいけないと思っていた。
だからこそ、その沈黙は残酷なくらい甘く、苦しかった。
「……ミス・キャンディス?」
近くの財界人に呼ばれて、キャンディははっと我に返った。
「す、すみません。少し……気分が……」
テリィもまた、団長に肩を軽く叩かれ、意識を現実に引き戻された。
だが、目だけは、互いを追っていた。
どちらも、“もう一度だけ”を願いながら。
◇
しばらく、ぎこちないまま総長の名代として場に立ち続けたが、胸の動揺は隠しきれなかった。
(……だめ。こんな顔では、誰とも話せない)
キャンディは体調が思わしくないと、そっと会場を抜け出し、庭園へむかった。
夜風が頬に触れる。
シカゴ川の光が揺れ、街のネオンが遠く瞬いている。
庭園のベンチに腰を下ろし、深く息をついた。
(どうして……どうして会ってしまったの……)
胸の奥がずきずきと痛む。
忘れたことなど、一度もなかった。
けれど、会わないことで少しずつ心の形を保っていた。それがいま、脆く崩れようとしている。
ふと、足音がした。
聞きたくないのに、聞きたくてたまらなかった声が……。
「……キャンディ」
その場で心臓が跳ねた。
振り向いてはいけない。でも、振り向いてしまう。
そこにいたのは、舞台が鍛えた強さと、変わらない優しさを宿した眼差しのテリィだった。
「どうして……ここに……」
絞り出すように問うキャンディに、テリィはゆっくりと歩み寄る。
「きみが出ていくのが見えた。……いや、付いてきたわけではなく、体調悪いと聞いた…放っておけるわけないだろ」
声は低く、震えていた。
テリィは少し間を置いて、喉が詰まるような声で問う。
「今……きみは幸せ、なのか?」
キャンディの胸が痛むと同時に、耳元で囁かれた彼の最後の言葉がよぎる……
『幸せにならないと、承知しないからな』
無理にでも笑顔を作ろうとしたが、表情は引きつった。
「ええ……私は……幸せよ」
嘘。でも、言わなきゃいけない。
テリィの眉がほんの少しだけ沈んだ。
「……そうか」
その声には、言葉にできない寂しさが宿っていた。
沈黙。庭園の風が花を揺らす。キャンディは耐えきれず、目をそらした。
(言ったら……だめ。 “幸せじゃない”なんて言ったら……何かが壊れてしまう)
でも胸の奥では、別の声が震えていた。
ほんとうは、会いたかった。
テリィはポケットの中でこぶしを握った。
いまにも感情が溢れそうだった。
「……身体は、もう大丈夫なんだな」
「ええ。少し夜風に当たったから……」
「よかった。……ならよかった」
テリィは、それ以上言葉を紡ぐことができずにいた。
どちらの声も、涙の瀬戸際で揺れている。
「テリュース!時間だ、行くぞ!」
テリィは振り返らず、キャンディを見つめたまま言った。
「……行かなきゃいけない。次の公演地に」
キャンディは小さく頷いた。
「ええ。あなたは……舞台の人だもの」
テリィの瞳が痛みで揺れる。
言いたいことがある。でも、言ってはいけない。
名残の視線だけを交わし、テリィは踵を返した。
振り返らなかった。
振り返ったら、戻れなくなるから。
キャンディはベンチに残されたまま、震える指で胸を押さえた。
◇
会場のほうから、ジャズシンガーの歌声が静かに流れてきた。甘く、切ないメロディ。
♪ 幸せ?と聞かないで
嘘つくのは上手じゃない……♪
歌詞が、胸の奥の痛みに触れた。
キャンディの頬に涙が伝う。
(忘れられない……忘れられるわけ、ない……)
毎日忙しく慌ただしいが、充実していて……それも幸せの一つだと思う。
けれど……
テリィに問われる幸せはこれとは違う……。
両手を胸に当て、震える声で呟いた。
「……テリィ。私……幸せって言ったけれど……本当は……」
言葉は霧の中に消えた。
夜のシカゴは静かに光り、風に揺れる花の影だけが彼女の涙を知っていた。