冬の光が、高窓から斜めに差し込んでいた。
古い木の床に刻まれた無数の靴跡が、この劇場がどれほど多くの俳優を飲み込み、試してきたかを物語っている。
稽古場には、すでにSMTの俳優たちが集まっていた。
円を描くように並べられた椅子。
中央には、配役表を置いた長机。
誰も声を張らない。
だが、空気は張り詰めている。
理由は、ひとつ。
今日、“彼”が来るからだ。
テリュース・グレアムが……。
ブロードウェイのロングラン。
現代劇とシェイクスピアを行き来する異色のキャリア。
ロンドン公演二度。二度目は国王の観劇。
昨シーズンの『ハムレット』は、「ロンドン批評家賞・主演男優部門」に名を連ね、舞台誌では“今代最も危うく、最も誠実な王子”と評された。
だがここにいるほとんどが実物を見たことがない。
噂だけが先行しているのだ。
そこへ、扉が開いた。
ローレンス芸術監督が先に入り、一歩遅れてテリィ、その数歩後ろにケビンが姿を現した。
控えめなざわめき、そして空気が変わった。
テリィの立ち姿には立っているだけで“舞台の人間”だとわかる佇まいがある。
背筋はまっすぐ。視線は鋭く、そこに佇んでいるだけなのに華がある。
「――紹介しよう」
ローレンスが言った。
「今季『ジュリアス・シーザー』、ブルータス役を演じる、テリュース・グレアム君だ」
一瞬、間があった。だが、すぐざわめきに変わる。
主演で招聘された男が、ブルータス。
それは少し前から定まっていた役で、すでにここにいる全員が知っている。
だが、こうして本人を前にすると、理屈よりも感情が先に立つ。
(なぜ、ブルータス?こんなにも主役の顔をしているのに)
テリィは一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「はじめまして。ストラトフォードの舞台に立てることを、光栄に思います」
声は低く、抑制されている。
「未熟な点もあると思いますが、同じ舞台に立つ仲間として、どうぞよろしくお願いします」
それだけだった。
パラパラと遠慮がちな拍手が起きる。
ローレンスは配役表を手に取った。
「では、配役を発表する」
名前が読み上げられていく。
——シーザー。
——アントニー。
——キャスカ。
そして、
「カシウス役はケビン・マクグラス君だ」
一部の俳優が、わずかに目を見開いた。
ケビンは軽く手を挙げ、にこやかに笑って見せた。
「よろしく。ええと……緊張してる人、安心して。俺もですから」
空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、それを好ましく思わない視線も、確かにあった。
配役発表が終わり、ローレンスが締めくくる。
「以上だ。詳細は後ほど。今日は顔合わせまで……質問は?……ないならば本日はここまで。解散」
静かに散らばっていくが、視線は、テリィに集まっていた。
テリィの静かな立ち姿に、かえって警戒を深める者もいれば、興味を掻き立てる者もいた。
そのときだった。
「ねえ、グレアムさん」
軽い声が飛んだ。
中背で、どこか人懐っこい目をした俳優が、椅子から立ち上がって近づいてくる。
「ハムレット、観たよ。ロンドンの」
一瞬、空気が凍る。
テリィが目を向ける。
「……ありがとうございます」
「正直に言うとさ」
男は笑った。
「怖かったよ。あれを観たあとで、同じ演目の舞台に立つのは」
周囲が息を呑む。
だが、男は続けた。
「でも、ブルータスを選んだって聞いて、ちょっと安心したんだ」
「安心?」
ケビンが口を挟む。
「うん。 “王子”じゃなくて、“迷う人間”をやる気なんだなって」
テリィは、その言葉にわずかに目を伏せた。
それは評価ではなく、理解に近かったからだ。
「……そう見えましたか」
「見えた。だから楽しみだよ」
男は手を差し出した。
「地獄みたいな稽古になるだろうけどさ」
テリィは、その手を握った。
「それなら、いい舞台になる」
その瞬間。張り詰めていた空気が、ほんのわずかに、動いた。
重い扉の向こうで、新しい稽古の季節が、静かに始まろうとしていた。