――ストラトフォード・メモリアル・シアター
理事会室は、稽古場とは別の緊張を湛えていた。
分厚いカーテン。長い楕円形のテーブル。
壁には、過去の名優たちの肖像が静かにこちらを見下ろしている。
芸術監督ローレンス。
理事長。
数名の理事。
そして、テリィ。
彼は椅子に腰掛け、背筋を伸ばしている。
だが、空気は完全に「問う側」と「答える側」に分かれていた。
ローレンスが口を開く。
「演目は、決まったかね」
声は穏やかだ。だが、その裏にある期待と警戒を、テリィははっきり感じ取っていた。
「はい」
一瞬の間。誰も口を挟まない。
「『ジュリアス・シーザー』です」
理事のひとりが、わずかに顎を上げる。
「では、シーザーを……」
テリィは、間を置かずに答えた。
「ブルータスを希望します」
沈黙。それは、否定の沈黙ではないが、歓迎の沈黙でもなかった。
理事長が、低い声で言う。
「確認しておくが、君は“主演として”招聘されている」
「承知しています」
「それで、ブルータスなのかね」
ローレンスが、テリィの表情を注意深く見ている。
「理由を聞いても?」
テリィは、少し考えた。
そして、言葉を選ぶのをやめた。
「好きな登場人物だからです」
一人の理事が、眉をひそめる。
「それは、随分と単純な……」
だが、テリィは続ける。
「誤解のないように言います。軽い意味ではありません。若い頃から、ずっと惹かれていた人物です」
ローレンスが、静かに問う。
「それがなぜ、ブルータスなのか」
テリィは、視線を上げた。
「彼は、英雄でも悪党でもなく、正しいと信じた選択で、一番大切なものを壊してしまう男です。
それでも最後まで、自分が間違っていたのかどうかを、他人ではなく、自分に問い続ける……」
言葉は淡々としている。
だが、部屋の空気が、少しずつ変わっていく。
「私は、ロミオのような燃え尽きる男を演じる年齢ではありません」
理事のひとりが、思わず口を挟む。
「しかし、観客は君に“中心”を求める。ブルータスは、物語の軸ではあるが、舞台の中心になる役ではない」
テリィは、頷いた。
「ええ。だからこそ、です。中心に立たずに、物語を動かしてしまう人間。その怖さと責任を、いまの自分で引き受けたいのです」
一瞬、誰も言葉を発しない。
ローレンスが、低く言った。
「そこに野心はあるのかね?」
「全くありません」
テリィは清々しいほどにきっぱりと否定する。
「私がこれまでの俳優人生の時間を差し出すには、一番ふさわしいとは思っています」
理事長が、ゆっくりと腕を組む。
「君は、この舞台では、“自分のやりたい役”を引き受けに来たと?」
テリィは、はっきりと答えた。
「はい。だからこそ、主役を選びませんでした。主役を演じる理由なら、いまの私は、いくつも持っています。でも、ブルータスを演じる理由は――単純すぎるほどひとつしかないのです」
短い沈黙。
ローレンスは、しばらく目を閉じてから、言った。
「……危険な選択となるだろう」
「承知しています」
「成功すれば、称賛される。失敗すれば、 “なぜ主役をやらなかった”と、長いこと言われるだろう」
テリィは、静かに頷いた。
「それでも構いません」
ローレンスは、ふっと息を吐いた。
「……なるほど」
そして、理事たちに目を向ける。
「彼は、主役という“安全な成功”を選びに来てはいないようだ」
理事長が、ゆっくりと頷いた。
「ストラトフォードは、そういう選択を拒む劇場でもない」
最後に、ローレンスがテリィを見つめる。
「わかった。ブルータスでいこう。ただし――次に主演で招聘するかの保証がないことは覚えておいてほしい」
テリィは、深く一礼した。
「承知しています」
重い扉の外では、まだ誰も、この決定を知らない。
だがこの瞬間、ストラトフォードの舞台は、ひとつの賭けを引き受けた。
そして、テリィは、自分が最も愛してきた人物を、ついに舞台に呼び出すことになる。