夜のリビングは、子どもたちが眠ったあとで、ようやく静けさを取り戻していた。
暖炉の火は落とされ、ランプの灯りだけが、壁に柔らかな影をつくっている。
テリィは窓際に立ち、外の闇を見て、考えごとをしていた。キャンディは、すぐにそれに気づくと声をかけず、隣に立った。
「演目は、決めていいと言われた」
テリィが、ぽつりと言った。
「しかも、未演のものからということだがな……」
それは、大変な名誉であり、信頼であり、同時に重い条件だった。
キャンディは驚いたが、騒がなかった。
「それで……決めたの?」
テリィは、正直に言った。
「……考えた、かなり。リア王はまだ俺には重すぎる。アントニーも、悪くないはないがでも……なんか違う」
キャンディは、黙って聞いている。
テリィは、ふっと小さく笑った。
「結局さ……頭に浮かんだのは、ブルータスだったんだ」
キャンディの視線が、彼に向く。理解を探る目。
「どうして、ブルータス?」
テリィは、少し肩をすくめた。
「理由を並べようと思えば、いくらでも並べられる。政治的な役だとか、思想の役だとか。でも……そういうのじゃなくて」
そう言って、キャンディのほうを見る。
その目は、舞台で観るときの鋭さとは違っていた。
「俺さ……ブルータスが、ずっと好きだったんだ」
キャンディは、はっとする。
それは、役者としての“選択理由”というより、少年のころから抱えていた好き、だったからだ。
テリィは続ける。
「ブルータスは主役じゃない。でも、物語を一番壊す人間……悪役でもなく、正義でもない。……信じすぎて、考えすぎて、間違える男だ」
言葉が、少しずつ熱を帯びていく。
「……あいつはさ、“正しいこと”を選んだつもりで、一番大事なものを失う。
それでも最後まで、自分が正しかったかどうかを、問い続けるんだ」
キャンディは、その横顔を見ていた。
ああ、と心の中で思う。
あの夏と同じだ。
スコットランドの湖畔。セントポール学院の夏休み。水辺に腰を下ろして、テリィが夢中で語っていた昼下がり……。
「シェイクスピアってさ、王様の話じゃないんだよ。選び続ける人間の話なんだ」
あのときの、目を輝かせた少年。
いま、目の前にいるあのひとは、同じことを、もっと静かな声で語っている。
「……いまの俺には、ブルータスが一番、近い気がする」
テリィは、正直に言った。
「愛するものがあって、守りたいものがあって、それでも、“正しいと思った選択”から、逃げられない男」
少し間があって、声が低くなる。
「ブルータスを好きな理由は、たぶん、そこにある」
キャンディは、ゆっくりと息をついた。
「でも……SMTは、あなたを主役として呼んだのよ?」
「わかってる」
テリィは、すぐに頷く。
「それは、ちゃんとわかってる。期待されてることも、見たいと思われてる姿も」
一瞬、迷いがよぎる。
「……理解してもらえるかは、正直わからない。断られるかもしれないし、歓迎されないかもしれない」
それでも、と続ける。
「でも、これを演りたいって思った気持ちは、嘘じゃない」
キャンディは、少し考えてから、微笑んだ。
「じゃあ、言ってみたら?」
テリィが、驚いたように彼女を見る。
「あなたが、そんなふうに好きだって語れる役なら、きっと、それは伝わるわ。計算じゃなくて、体裁でもなくて、ただ、シェイクスピアが好きだっていう気持ち」
キャンディは、そっと彼の手に触れた。
「それを聞いて、どう受け取るかは、向こうの問題よ。あなたの思いは、ちゃんと伝えていいと思う」
テリィは、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……そうだな」
少年の頃のように、少し照れた笑みを浮かべる。
「まずは……きみに話して、よかった」
キャンディは笑う。
「当たり前でしょう?あなたの一番のファンは私なんだから」
二人の間に、静かな確信が流れる。
この瞬間、テリィの中で決まった。