スザナの仕事は、順調だった。

舞台の脚本を任され、打ち合わせと執筆に追われる日々。

締切に追われながらも、作品が形になっていく高揚感は、確かに彼女を生かしていた。

「忙しい、って……悪くないわね」

そう笑ったこともある。

けれど、前触れがなかったわけではない。

歯を磨くたびに、歯茎から血がにじんだ。

立ち上がると、視界が白くなることがあった。

階段を上るだけで、息が切れる日も増えていた。

それでもスザナは、自分に言い聞かせていた。

疲れているだけ。少し、無理をしすぎているだけ。

食欲はある。眠れる。仕事もできている……その日、倒れるまでは。


打ち合わせの帰り、駅の構内だった。

急に足元が崩れ、視界が暗転した。

次に目を開けたとき、天井は白かった。

「病院……?」

点滴の感触。聞き慣れない機械音。

入院して一週間、仕事に戻れるほど元気になっていた。にも関わらず、医師の表情は、慎重すぎるほど静かだった。

「検査の結果をお伝えしたいと思いますが、お母様がスザナさんには正直に話してほしいと言われました」

言葉は感情を乗せないよう、細心の注意を払う声。

すぐに嫌な予感を感じる。けれど自分の知らないところで、事が進むのは好まない。

「ええ。その通りです」

医師は一つ息をつく。そして……

「スザナさん、あなたは白血病と考えられます」

一瞬、意味が理解できなかった。

「え?……白血病?」

「しかも進行が早いタイプのものと思われます。治療は……有効な治療法はありません……」

医師は、一度、間を置く。これから先の言葉がどれほど残酷なものになるかを十分にわかっているからだ。

「余命は……半年ほどと考えてください」

「そ……んな……」

言葉が、音にならなかった。

半年?一年でもなく、数年でもなく、半年。

スザナは、笑いもしなかった。泣きもしなかった。

ただ、頭の中で、“予定”が静かに消えていった。

書きかけの脚本。次の舞台。その先の仕事。そして彼との未来。


入院して半月後。病院の待合室に置かれてあった新聞に、目が留まった。

写真。見覚えのあるカフェ。見覚えのある横顔。テリィと、自分。見出しは、無邪気なほど軽かった。

《恋人たちの語らい》

《主演俳優と支えるのは元女優》

《甘い会話のひととき》

スザナは、しばらくそれを見つめていた。

甘い会話?

――違う。

でも、切り取られた表情は、確かに“恋人同士”に見えた。

少し伏せた視線。静かに向き合う距離。

(……ああ)

胸の奥で、何かが静かに崩れた。

(私は、結局……)

彼の恋人には、なれなかった。

彼の心にいるのはあの人。ずっと。

それは、わかっていたことだった。

でも。記事の中だけでは、彼の恋人でいられる。

誰にも邪魔されず、誰にも否定されず。

声にならない呟きが、唇からこぼれた。

「せめて……生きてるうちは……」


テリィに伝えたのは、病室だった。

病名も、余命も、すべて。テリィは、言葉を失った。

「半年……?」

その声は、かすれていた。

スザナは、静かに頷く。

「だから……お願いがあるの」

震える声だったが、目は、まっすぐだった。

「記事の中みたいに……生きてる間だけでいいから……私を……紙面のような存在に、させてほしい」

恋人。婚約者。支える女性。

本当ではないことを、二人とも、わかっている。

「あなたの心に、誰がいるのかも……全部、わかってる。私には、それしか、縋るものがないの」

テリィは、俯いた。

死にゆく人の願いを、振り解くことなど、できなかった。

「……わかった」

それは、誓いでも、愛でもない。

ただの、同意だった。

「……ありがとう」

スザナは、微かに笑った。


それからもテリィは病院に通い続けた。

時間の許す限り。稽古の合間。公演の前後。

そのたびに、記事は書かれた。

《献身的な看病》

《愛を支えに闘病》

《婚約者として寄り添う》

スザナは、その見出しを、何度も読み返した。

虚しかった。けれど、それでよかった。

記事の中の自分だけが、彼の隣にいられる。

現実では、決して得られなかった場所。


半年後。春を迎える前に、スザナは、静かに息を引き取った。

最期まで、テリィは、約束を守った。

そして、記事は、静かに消えていった。

残ったのは、真実ではない恋の記録と、誰にも語られない沈黙だけ。

スザナは、架空の恋人として、生き、架空の恋人として、死んだ。

それでも彼女は、自分の選んだ形で、最後まで、“生きた”のだった。