最初に気づいたのは、ほんの些細な変化だった。
通院の帰り。
いつもなら、テリィが自然に前に出て、タクシーを止めてくれる。
けれどその日、スザナは自分で手を挙げた。
「……あ、私が呼ぶわ」
そう言った瞬間、
彼の動きが、ほんの一瞬止まったのをスザナは見逃さなかった。
そして、彼は何も言わずに頷いた。
胸の奥で、小さく音がした。
——何かが、違う気がする?気のせい?
スザナは、もう以前の自分ではない。
義足の扱いにも慣れ、階段も、買い物も、時間をかければ一人でできる。
仕事もある。
ラジオ局でのナレーションやラジオドラマの出演。自分の声で、報酬を得るという実感。
舞台では脚本も手がけている。
「一人で大丈夫」
そう言えるだけの材料は、確かに揃っている。
……理屈の上では。
けれど。
(それと、これとは……違う)
テリィがそばにいる生活と、いない生活。
その差を、スザナは誰よりも、はっきりと想像できてしまう。
地方巡業から戻ってきてから、テリィは少しだけ変わった。
優しくなくなったわけじゃない。気遣いをやめたわけでもない。
ただ——“視線の向こう”が、遠くなった。
舞台の話をしている最中、ふと、言葉が途切れる。
考え事をしているときの横顔。
その表情を、スザナはよく知っている。
かつて、彼が誰かを想っていたときの顔だ。
(……誰のことを、考えているの?)
問いは、心の中でしか、形を持たなかった。
聞けない。聞いてはいけない。
答えが返ってくる前に、自分が壊れてしまうから。
ある夕方。
スザナは、ほんの一瞬、バランスを崩した。壁に手をつく。
その瞬間、テリィが一歩、前に出かけて——止まった。
助けるための一歩。
そして、“助けなくていい”と判断した一歩。
スザナは、自分で体勢を立て直した。
「……大丈夫」
そう言うと、彼は少しだけ息を吐いた。
「……そうだな」
その声に、安堵と、わずかな距離を感じてしまう。
(……ああ)
スザナは、そのとき、はっきりと悟った。
(この人は、もう、私の人生の“中心”から、一歩、外に出ようとしている)
夜。
一人になった部屋で、スザナは窓辺に立つ。
理性は、すべて理解している。
テリィには未来がある。
芝居がある。
そして、彼が選びたい人生が、きっとある。
心の中で、何度も言い聞かせる。
(私が縛ってはいけない。私が、足を引っ張ってはいけない)
それは、正しい答えだ。
でも。胸の奥から、どうしても消えない声が、静かに、しかし確かに響く。
(テリィのいない生活なんて、考えられない。)
朝、通院に、一人で向かう日常。
何かあったとき、呼び止める名前がない夜。
涙は、流さない。流してはいけない。
彼の前では、なおさら。
だからスザナは、何も言わない。
「行かないで」とも、「そばにいて」とも、言わない。
代わりに、彼の背中が遠ざかっていくのを、静かに見送る。
(あなたが、幸せになるなら)
そう思おうとする自分と、そう思えない自分が、
胸の中で、静かにせめぎ合っていた。
夜の街の灯りが、滲んで見えた。
それでも、スザナは立っていた。
立つと決めた人の背中を、最後まで、見送るために。