夕方のニューヨークは、昼と夜のあわいにあった。

西の空にはまだ淡い光が残り、ビルの谷間から反射した夕映えが、ペントハウスの窓ガラスにやさしく滲んでいる。

キャンディはリビングのソファに腰かけ、窓の外を眺めていた。

街が夜へ移ろうその一瞬が、彼女は好きだった。

忙しなく動いていた昼の顔が静まり、灯りがひとつ、またひとつと灯っていく時間。

(そろそろ、かしら)

そう思ったとき、玄関の方で鍵の回る音がした。

反射的に顔を上げる。

「……テリィ?」

呼びかける声は、自然と少しだけ弾んでいた。

コートを脱ぎながら中へ入ってきた彼は、確かに疲れた表情をしていた。

舞台を終えたあとの、あの独特の影をまとっている。

けれど、リビングに立つキャンディを視界に捉えた瞬間、その表情がふっと緩んだ。

「ただいま」

低く、少し掠れた声。

その一言を聞いただけで、キャンディの胸の奥が静かにほどけていく。

今日一日の出来事が、すべて“ここ”で終わった気がした。

「おかえりなさい。今日は遅かったのね」

「稽古が、少し長引いた」

そう言いながら、テリィはネクタイを外し、肩を回す。

キャンディは何も言わず、自然に歩み寄り、彼のコートを受け取った。

その仕草は、もう特別なものではない。

“夫婦になった”という事実が、毎回少しずつ、胸に染み込んでくる。


誰かが帰ってくるのを待ち、帰ってきた人の上着を受け取り、同じ夜を迎える。

それだけのことなのに、それが、こんなにも確かな幸福だとは。


「夕飯、もうすぐ出せるわよ」

キャンディがそう言った、そのときだった。

「その前に」

テリィは、彼女の手首をそっと取った。

力はほとんどない。

けれど、離さないという意思だけは、はっきりと伝わる。

「?」

軽く引き寄せられ、キャンディは彼の胸元に触れた。

外気の冷たさと、舞台の匂い。

そして、その奥にある、彼自身の体温。

「今日は……きつかった」

低い声が、肩越しに落ちてくる。

それは弱音というほどのものではない。

けれど、“ここなら言っていい”という声だった。

「キャンディの声、聞きたかった」

「もう、今聞いてるでしょう?」

そう言うと、テリィはわずかに口元を緩めた。

「だから、こうしてる」

額に。頬に。髪に。キスはどれも短く、確かめるようで、急がない。

帰還の合図のようだった。

「ねえ、テリィ」

「ん?」

「舞台の上では、あんなに強いのに」

キャンディは、少しだけからかうように続ける。

「家では……甘えんぼね」

テリィは眉を寄せ、ほんの一瞬だけ不満そうな顔をした。

「妻の前でくらい、いいだろ」

その言葉に、キャンディは小さく笑った。

「ふふ……そうね」

彼の胸に頬を寄せる。

心音が、ゆっくりと落ち着いていくのがわかる。


何か特別な出来事があったわけじゃない。

大きな言葉も、派手な感情もない。


ただ、帰ってきて、抱きしめられて、同じ部屋で夜を迎える。

それだけで、十分すぎるほどだった。


「まだ、離れるなよ」

囁くような声。

「離れません」

キャンディがそう答えると、テリィの腕に、自然と力がこもった。


窓の外では、ニューヨークの夜が完全に始まっていた。

無数の灯りが瞬き、街はまた別の顔を見せている。

その光を背に、ふたりは何も言わず、ただ寄り添っていた。