朝のニューヨークは、静かだった。春風が、カーテンをわずかに揺らす。

キャンディはキッチンに立ち、オーブンから天板取り出した。

甘い香りが部屋に広がる。

「うん……いい感じ」

昨日の夜、子どもたちが寝たあとに焼いたクッキーだ。

オリヴァーとオスカーが朝起きたら喜ぶだろうし、

何より——

(テリィも、きっと)

そのときだった。


ふと、違和感。

カウンターの上に置いたはずのクッキー缶が、少しだけ……軽い。

「……?」

蓋を開けた瞬間、キャンディは固まった。

「……あれ?」

半分以上、ない。

一瞬、頭が真っ白になり、次の瞬間、心当たりが浮かぶ。

キャンディは、ゆっくり振り向いた。

ダイニングテーブルで、新聞を広げて座るテリィ。

何事もなかったかのような顔。

「テリィ?」

呼ばれて、彼は新聞から目を上げる。

「おはよう」

「……おはよう、じゃありません」

キャンディはクッキー缶を持ったまま、彼の前に立った。

「これ」

「それがどうした」

「どうした、じゃなくて」

一拍置いて、静かに言う。

「昨日焼いたクッキー、ほとんどなくなってるんだけど?」

テリィは一瞬だけ視線を逸らした。

ほんの一瞬。それで十分だった。

「……夜中に、少し」

「“少し”が、この量?」

キャンディが缶を傾けると、中で寂しく音がした。

テリィは咳払いをする。

「考え事をしていた」

「舞台?」

「ああ」

「だからって、私のクッキーは思考補助食品じゃありません」

腕を組むキャンディに、テリィは立ち上がった。

「悪かった」

「反省してる?」

「してる」

即答。だが、どこか軽い。

キャンディはじっと彼を見る。

「……本当に?」

テリィは一歩近づいた。

「代わりに、何でもする」

「何でも?」

「そう、何でも」

少しだけ、低い声。キャンディは警戒する。

「それって、例えば?」

「抱きしめる」

「理由になってないわ」

「立派な理由だ」

そう言って、テリィは腕を伸ばした。

キャンディは一歩下がろうとするが、背中がカウンターに当たる。

「ちょ、ちょっと……」

「夜中に甘いものを食べた理由は、もう一つある」

「何よ」

テリィは、間近で囁いた。

「きみが作ったものだからだ」

ずるい。キャンディは、思わず顔をしかめる。

「それ言われると、怒れなくなるじゃない」

「本当のことを言っただけだが」

テリィは、ゆっくりと抱きしめた。

力は強くない。でも、逃げられない程度。

「疲れてるとき、きみの味がすると落ち着くんだ」

「……子どもみたい」

「惚れた男は、大体そうだ」

キャンディは、ため息をついた。

「次からは、もう少し残しておいて」

「努力する」

「“努力”じゃなくて“約束”」

「……わかった約束する」

ようやく腕を緩める。

キャンディは、少しだけ照れたように言った。

「今度は、みんなで一緒に食べましょう」

「それが一番いいな」

そのとき、足音がした。

「おとうさん?」

「おかあさん?」

オリヴァーとオスカーが、眠そうな顔で現れる。

キャンディは慌ててクッキー缶を隠した。

「おはよう。もうすぐ朝ごはんよ」

「クッキーの匂いがする!」

オスカーが言うと、テリィは咄嗟に言った。

「それは夢だ」

「夢じゃないよ!」

キャンディは、こらえきれず笑ってしまった。

惚れた弱み。

それは、負けじゃない。

こうして毎日、小さなことで揉めて、結局くっついてしまう。

それがこの家の、いつもの朝なのだ。