スージーは、帽子屋でもらった薄い給料袋をコートの内ポケットにしまい、キャンディの講義を手伝った帰り道、どこか沈んだ顔をしていた。

歩調が自然と落ちていくのを感じたキャンディは、立ち止まってスージーを見つめる。

「何かあったの?」

スージーは手に持っていた封筒をぎゅっと握りしめた。赤十字社から届いた“奨学生試験・過去問題”一式だ。

「キャンディ……これ……」

封筒を差し出す手は震えていた。

キャンディがその封筒を開くと、びっしりと書き込まれた問題文が目に飛び込んできた。

英語の長文読解。算術ではなく、本格的な数学。生物学は人体の基礎を越え、実質、医療系予備知識を求められている。時事問題には英国議会制度や世界情勢まで含まれていた。

「……こんなに高いレベルなのね。奨学生は本当に狭き門だわ」

キャンディはどうにか彼女の道を開こうと考えている。スージーは唇を噛んだ。

「わたし……こんなの、解けません。高校では、こんな勉強、したことありませんでした。成績だって……中の下くらいで……」

キャンディは黙って耳を傾けた。

「数学なんて、問題を見てもどこから手をつければいいか分からなくて。勉強し直すにも、どうすればいいか……」

苦しげに吐き出す言葉は、ロンドンで生きる若い娘がぶつかる現実そのものだった。

「受かりたい。でも……わたしじゃ無理だと思うんです」

スージーの瞳はしぼんでいく炎のように揺れていた。

キャンディは深く息を吸い込んで、しばらく空を見上げた。ロンドンの空は重たく鈍い灰色。しかしその向こうに、きっと光があると信じたい。

(家庭教師がいれば。勉強の仕方だけでも教えてくれる人がいれば……)

頭の中で、キャンディは何人かの知り合いの顔を浮かべた。だが、医療も教育も本格的に教えられ、かつ信頼できる人物が思いつかない。

「……あ」

キャンディの足がふいに止まった。

「スージー、ちょっと待って。家庭教師!適任者……いるかもしれない……!」

スージーが驚いて目を見開く。

「えっ? 家庭教師ですか?」

「勉強の仕方を教わるだけでも参考になるかもしれないわ。家庭教師ならわたしの夫に!」

テリィは、セントポール学院時代は常に上位を維持していた秀才だった。欧州文学も数学も語学も、教養の幅が広い。そして何より、誰かの努力を嘲笑うような人ではない。

(きっとスージーを助けてくれる。……いや、助けてほしい。スージーには道を開いてあげたい)

しかし、同時にキャンディは苦笑もした。テリィは忙しい。急に頼んで動いてくれるかは……未知数だ。それでも、キャンディの中に迷いはなかった。

「まずは話してみるわ。スージー、一度うちに来ない?夫に直接、会ってみてもらいたいの」

スージーは戸惑いながらも、かすかに頬を赤らめてうなずく。

「えっ、でも……私なんかが、伺っていいんですか?」

「いいのよ。あなたは大切な友だちだもの」

その言葉に、スージーの表情がほんの少し明るくなった。

夜。テリィが稽古から戻ると、キャンディは紅茶を淹れて待っていた。

「家庭教師?」

テリィが片眉を上げる。稽古で疲れた肩をコートのままほぐしながら、半信半疑の声。

「俺が?」

「ええ。スージーのこと、みてあげてほしいの。あの子、とても頑張ってるのに……ひとりじゃ越えられない壁にぶつかってるの」

テリィはしばらく黙っていた。乗り気でないのは表情を見れば一目瞭然だ。

「ほかにいないのか?俺は今は稽古が……」

「分かってるわ。でも、授業のすべてをお願いするつもりはないの。勉強の仕方や基礎を教えてあげるだけで、あの子はきっと変わる」

テリィは紅茶をひと口飲み、ため息をついた。

「まずは、その子に会ってみないと何とも言えないな」

キャンディの顔がぱっと明るくなった。

「来週の日曜にお茶に招待してもいい?」

「ご自由に」

ぶっきらぼうな言い方だが、断っていない。それで十分だった。キャンディは小さくうなずき、心の中でそっと祈った。

(スージー、道はきっと開くわ。あとは……二人が出会うだけ)

こうして、片田舎の少女が夢を取り戻し、ブロードウェイの俳優と向かい合う日が静かに近づいていく。

ロンドンの空は、冬の午後特有の鈍い銀色をしていた。陽が落ちるまでまだ時間はあるはずなのに、街全体が静かに薄暮をまとっている。

グランチェスター邸の門をくぐったスージーは、その堂々たる構えに足を止めた。

(……ここが、キャンディの家?)

帽子屋で働く彼女には縁遠い世界だ。しかし、あの日キャンディが差し出した温かい言葉や手紙の記憶が、スージーの背中をそっと押してくれていた。

ベネットが静かに扉を開き、スージーをペントハウスのサロンへ案内する。火の入った暖炉の前にはキャンディがいて、ぱっと笑顔になった。

「スージー! よく来てくれたわね。寒かったでしょ?さ、入って。お茶を用意しているわ」

スージーが席についたそのとき、背後でゆっくりと扉が開いた。

「……キャンディ、ただい──」

低く、落ち着いた声。振り返ると、長身の男がコートを脱ぎながら入ってきた。

鋭い瞳、どこか疲れをまといながらも気品を失わない立ち姿。その存在感は、スージーの想像を超えていた。キャンディが微笑む。

「テリィ、紹介するわ。こちら、スージー。いつも話しているわよね。私が昔お世話になったカーソンさんの娘さんよ」

テリィは一瞬スージーを見て、わずかに眉を上げた。無愛想に見えるが、感情を押し隠すような静かなまなざしだった。

「はじめまして。テリュース・グランチェスターだ」

深く響く声が部屋に落ちた瞬間、スージーは飛び跳ねるように立ち上がった。

「は、はじめまして……! スージーと申します……!」

テリィは軽く頷くだけだったが、その目はスージーを観察していた。

彼女の着古したコート、擦れた靴、それでも丁寧に髪を整えて来たこと。すべてを一瞬で読み取るように。

(なるほど……キャンディが気にかける理由が分かる)

テリィはコートを執事に渡し、スージーの向かいに腰を下ろした。

「妻から聞いた。赤十字の試験を受けるんだって?」

スージーはうつむき、ぎこちなく頷いた。

「はい……でも、過去問題を見たら、とても……」

キャンディがすぐにフォローするように言葉を添える。

「スージーは頑張り屋さんなの。でも基礎が不足していて……ね、テリィ。あなたが勉強の“やり方”だけでも教えてくれたら、きっと──」

テリィは静かにティーカップを持ち上げた。紅茶の湯気越しにスージーを見つめる瞳は、どこまでも冷静だ。

「本気で受かりたいのか?」

単純な問いだった。しかし、その声は嘘を許さない鋭さを帯びている。スージーは一度息を呑み、そして顔を上げた。

「受かりたいです。私、ロンドンに出てきて、何をしていいかわからなくなって……でも、キャンディの授業を見て思い出したんです。昔、手紙に書いた“看護婦になりたい”って夢を……もう一度、やり直したいんです……!」

声が震え、胸の奥が熱くなるのがわかった。テリィは紅茶を置き、腕を組む。しばし沈黙。暖炉の薪がぱちぱちと弾ける音だけが響く。

「……分かった。まずは、君がどこからつまずいているのか見よう」

キャンディがぱっと顔を明るくした。

「じゃあ──!」

「ただし」

テリィの声が低く響いた。

「俺は甘やかさない。本気でやるなら、とことん付き合う。だが途中で投げ出すなら、最初からやめておいたほうがいい」

スージーは胸の前で手をぎゅっと握った。

「はい。やります。お願いします!」

テリィは静かに頷いた。その瞬間、暖炉の炎が揺れ、三人を包む空気が温度を変えた。