開演を告げるベルが、静かに三度鳴った。

客席のざわめきが、ゆっくりと沈んでいく。

赤い幕の奥、薄暗い舞台袖で、テリィは一人、目を閉じていた。


(……集中しろ)

いつものことだ。

ロングラン公演の途中、体も声も、すでに役を覚えている。

なのに、その夜だけは、心のどこかが、わずかに噛み合っていなかった。


幕が上がる。

城の石壁を模した舞台装置。

冷たい照明。

重く澱んだ空気。


ハムレットとして一歩踏み出した瞬間、テリィは、いつもと同じはずの台詞を、ほんの一拍、遅れて口にした。

誰も気づかないほどの、僅かな間。


だがその一瞬、彼の脳裏に過ったのは、デンマークの王子ではなく、シカゴの夜、庭園のベンチに座るキャンディの横顔だった。


(……違う)

自分に言い聞かせる。

これは芝居だ。

過去を引きずるな。

けれど、言葉とは裏腹に、感情は静かに、別の方向へと流れ始めていた。


「我が父の亡霊よ……」


台詞は正確だった。

声も、抑揚も、間も、これまでと変わらない。


それなのに、その声には、今までになかった柔らかさが混じっていた。

怒りよりも、嘆き。

復讐よりも、喪失。


それはハムレットの感情であると同時に、シカゴの夜、言葉を交わせなかった男の感情でもあった。


(……幸せなのか)

自分が発した問いが、別の台詞に姿を変えて、舞台上に滲み出ていく。


「我は、笑うべきか……泣くべきか」

その一節を口にしたとき、テリィの視線が、ほんのわずか、遠くを見る。


――そこに、誰もいないはずなのに。


客席の誰かが、息を呑んだ。

理屈では説明できない。

だが確かに、その瞬間のハムレットは、誰か一人に語りかけているように見えた。


共演者も、違和感を覚えていた。

掛け合いの間が、いつもより、静かで、深い。

感情をぶつけ合う場面で、テリィのハムレットは、怒鳴らない。

代わりに、抑えた声で、痛みを押し殺すように語る。


(……行かなきゃいけない)

その言葉は、劇中には存在しない。

だが、彼の沈黙の中に、確かに宿っていた。


「行くぞ、行くのだ……」

舞台上のハムレットが前へ進むたび、テリィの中の男は、去る選択しかできなかった夜をなぞっていた。


観客は、ただ圧倒されていた。

いつも以上に、ハムレットが“人間”に見える。


王子ではなく、英雄でもなく、選べなかった一人の男として。


幕が下りる。

静寂のあと、遅れて押し寄せる、嵐のような拍手。


テリィは深く一礼しながら、胸の奥に、重たい余韻を抱えていた。


私情を挟んだつもりはない。

役に集中したはずだ。

それなのに、舞台を降りた瞬間、胸の奥に、同じ痛みが戻ってきた。


楽屋へ向かう廊下で、テリィはふと、足を止める。


(……あの夜を、置いてきたはずなのに)

置いてきたと思っていた。

だが、違った。


連れてきてしまったのだ。

会わなければ、平衡は保てた。

だが、会ってしまった以上……

心は、無意識のうちに、それを舞台に映してしまう。


それが、役者という生き物の、逃れられない性なのだと。


テリィは静かに息を吐いた。

「……それでも、やるしかないんだ」

誰にも聞こえない声で呟く。

舞台の人間として、前に進むために。


けれどその夜のハムレットは、

確かに、シカゴの庭園で交わされなかった言葉を、

舞台の上で、代わりに生きていた。