列車は、低く長い汽笛を残して、シカゴの夜を離れていった。

ホームに残る灯りが、ひとつ、またひとつと後方へ流れていく。

テリィは寝台車の個室に入り、扉を閉めたまま、しばらく身動きが取れずに立ち尽くしていた。


ようやく腰を下ろすと、深く息を吐く。

肺の奥に残っていた緊張が、遅れて滲み出すようにほどけていった。


――会ってしまった。


それだけの事実が、胸の内側で何度も反芻される。

忘れようとしていたわけじゃない。

忘れられるはずがないことくらい、最初から分かっていた。


それでも、会わなければ、触れなければ、声を聞かなければ。

心は、どうにか均衡を保てていた。

(……なのに)

シカゴの夜、目の前に現れたキャンディ。


記憶の中の彼女よりも、少しだけ大人びて。

それでも変わらない、あの瞳。


「幸せなのか?」


あの言葉は、衝動だった。

聞く資格など、どこにもないと分かっていたのに。


嘘だと、分かっていた。

「幸せよ」

そう答えた彼女の声は、昔と同じように明るく、そして、昔よりずっと脆かった。


テリィは個室の窓に額を預ける。

闇を裂くように、線路沿いの灯りが流れていく。

会わないことで、少しずつ、心を落ち着かせていた。

舞台に立ち、台詞を重ね、拍手を浴び、次の町へ向かう。

ロングラン公演という名の移動は、立ち止まらないための救いでもあった。


考えなければ、踏みとどまらなくて済む。

舞台の上にいる限り、テリュース・グレアムでいられる。


だが今夜は違った。


舞台を降りた、一人の男として、過去と正面から向き合ってしまった。

「あなたは……舞台の人だもの」

その言葉が、胸に刺さる。

(……ああ、そうだ)

自分は舞台の人間だ。

だから、去らなければならない。

残ることも、立ち止まることも、許されない。


キャンディは、その事実を誰よりも分かっている。

分かっているからこそ、あの笑顔を作った。


列車が大きく揺れた。


テリィは無意識に、胸元を押さえる。

そこには、まだ熱が残っていた。


もし……

ほんの一瞬でも、彼女が「幸せじゃない」と言っていたら。


もし……

ほんの少しでも、縋るような瞳をしていたら。


自分は、どうしていただろう。

答えは、分かっている。

だからこそ、考えることすら恐ろしい。

(……卑怯だな、俺は)

彼女が何も言わなかったことに、安堵している。

同時に、その沈黙に、救われてしまった自分がいる。


寝台の灯りを落とすと、暗闇がすべてを包んだ。

だが、目を閉じても、眠りは訪れない。


列車は闇を切り裂きながら走り続ける。

次の公演地へ。

次の舞台へ。


テリィは静かに、呟いた。

「きっと……大丈夫だ」

誰に言うでもなく。

自分自身に、言い聞かせるように。

それが、いま出来る唯一のことだった。


窓の外では、夜が流れ、

過去も未来も、等しく遠ざかっていく。


それでも胸の奥には、消えない灯が、静かに揺れていた。


会わないことで、保っている心。

会ってしまえば、すべてが揺らぐと知りながら。


列車は走り続ける。

彼の心もまた、揺れを抱えたまま、次の舞台へ向かっていた。