セントポール学院の2月最後の日。冬の冷たい空気の中、学院中がひそかに熱を帯びていた。
この日は“返礼の日”。
バレンタインデーに届いたカードへの 返事 を渡す……学院独自の、密やかな伝統。
だが男子生徒の間では、もうひとつの意味があった。
誰からカードをもらえるかで人気がわかる日。
そして、テリィ・グランチェスターは、朝から決めていた。
(……キャンディから来る。絶対に)
淡々とした横顔の裏で、その確信は誰にも見せない炎のように灯っていた。
休憩時間。講堂前の広い階段で、女生徒たちのざわめきが広がっていた。
「来るわよ……!」
「見て、イライザが……!」
ヒールの音を響かせながら現れたのは、鮮やかなリボンを髪に巻いたイライザだった。
彼女の手には、金糸の入った真紅の封筒。
最も華やかで、最も目立つカード。
取り巻きの女生徒たちが息を呑む中、イライザはまっすぐにテリィへ向かって歩いた。
その瞬間、その場の空気が張りつめる。
テリィは階段の手すりに寄りかかり、いつものように気怠そうな姿勢のまま、人波の動きを何となく眺めていた。
イライザは階段の途中で立ち止まり、周囲の視線を一身に集めながら、わざとよく通る声で言った。
「グランチェスター様。こちら、あなたへの返礼のカードよ」
空気が震えた。
取り巻きたちは「キャーッ」と小声で騒ぎ、周囲の女生徒も男子も視線を向ける。
紅い封筒を差し出すイライザの表情は、まるで勝利を確信したような笑みだった。
誰よりも先に、誰よりも堂々と、テリィへ渡したのだとアピールするように。
しかしテリィは、ほんのわずかに眉を上げただけ。
「……どうも」
それだけ言って、封筒をひょいと受け取ると、その中身を見ることもせず、制服の内ポケットに無造作にしまった。
イライザの笑顔が、わずかに固まる。
「……え、あの、わたくしの……気持ち、わかってくださるわよね? テリィ……?」
ほんの少し声が震えていた。
だがテリィの返事は、氷のように乾いていた。
「返礼の日だろ。受け取らない理由はない」
イライザの目が揺れる。
その口調は礼儀正しい。
だが、興味も情も一切ない。
まるで、差し出された紙切れを“行事の一環”として処理しただけ。
イライザの唇がかすかに歪んだその瞬間──
彼の視線がふいに動き、
遠くの廊下の方へ向けられた。
そこにいたのは、バレンタインデーの日に赤い頬で逃げるように去っていった少女……キャンディ。
イライザの胸に鋭い痛みが走る。
(……見てる……!あの子を……見てる……!)
周囲のざわめきが、さらに大きくなった。
しかしテリィはもうイライザを見ていなかった。
どんなカードであれ、彼が本当に欲しているものはたった一つ。
その事実を悟ったイライザの顔は、嫉妬の紅に染まっていた。
さらに午後の休憩時間。
廊下を歩けば、女生徒が赤くなって近づいてくる。
「こ、これ……受け取ってください!返礼ですわ!」
テリィは眉一つ動かさず受け取る。
次の瞬間、別の女生徒が走ってくる。
「グランチェスター様!これも……!」
講堂に向かえば、シスターの目も気にしない大胆な子が、みんなの前で堂々と差し出してきた。
「あなたに……これを」
小さなざわめき。
羨望のため息。
ひそひそ声。
だが当の本人は、カードの束などどうでもよかった。
淡々と、淡々と受け取り続ける。
けれど心の奥では、じわりと焦りが広がっていた。
(……まだ、か)
日が落ちても、返礼用ポストには何もない。
夕食後、廊下で偶然キャンディを見かけたときも、
彼女はどこかそわそわしていて、視線を合わせてこない。
(おい……どうしたんだ)
声をかけたい。
けれど男女は会話禁止。
しかも今日は“返礼の日”。
余計に話すことなど許されない。
寮に戻ったテリィは、部屋のソファにどさりと腰を下ろした。
机の上には、他の女生徒からの返礼カードが山になっている。
だが彼の目は一枚も見ようとしない。
(……あいつ、まさか忘れてるんじゃないだろうな)
いや、キャンディは忘れない。
分かっているのに、不安が胸をかすめる。
そのとき。
──カタッ
バルコニーのほうから、小さな何かが落ちるような音がした。
テリィはすぐに立ち上がる。
窓を開いた瞬間、冷えた夜風がふわりと頬をかすめた。
足元には石に括り付けられている赤い封筒。
拾い上げると、封の裏に 小さな四つ葉のクローバー の絵が描かれていた。
(……キャンディ)
テリィの口元が、勝手に緩む。
封を開けると、そこには拙いけれど、確かに彼女の筆跡。
《あなたの笑顔をいつもそばで見たい》
テリィは小さく噴き出す。
「……あのおてんばめ。夜にこそこそと……」
呆れたように呟きながらも、その声には甘い笑みが混じっていた。
薄暗いバルコニーの上で、カードを見つめる少年の表情は誰にも見えない。
けれどその日いちばんの笑顔だった。