1935年の秋。

木々が黄金色に染まり、エイヴォン川に白い靄が立つ頃、シェイクスピア・メモリアル・シアターは満員だった。

白髪の劇評家たちは口を揃えた。

「見事だ。実に正統派だ」

「発声、間。どれも伝統の継承そのもの」

客席からため息すら漏れるほどの見事な出来だった。

だが、若い観客たちは正反対の言葉を交わしていた。

「……すごいけど、驚きはなかったな」

「毎年観てる感じの“いつものハムレット”」

舞台は優雅で整っていた。

だが、あまりに端正すぎた。

新聞は礼儀正しく讃える一方で、若者たちの間では“新しいハムレットはどうなんだ?”という声が上がり始めた。

そしてロンドンでそれが爆発する。

ロンドン、アレックス劇団、SMTより半月遅れで初日を迎えた。

アレックスが積極的に仕掛けた宣伝。

メディアが煽り立てる “ロンドン vs SMT” の構図。

舞台関係者の口コミ。

すべてが絡み合い、初日を迎える前から、ロンドンは熱を帯びていた。


公開前の朝6時。まだ街は霧に包まれている。

なのに、劇場の前には黒い影がびっしりと並んでいた。

「これ……前日から並んでる人もいるらしい」

「アメリカ帰りの俳優か?そんなにすごいのか?」

新聞少年が叫ぶ。

「今日の朝刊!『ブロードウェイの怪物、ロンドンでシェイクスピアに挑む!』『SMTを脅かす新星!』」

ロンドン市民は完全に煽られていた。

薄暗い舞台袖。

テリィは目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。

アレックスが近づく。

「準備はいいか?」

「あぁ、いつでもできてる」

ケビンは苦笑しながら肩を叩いた。

「いつものおまえだな」

緊張と期待が混ざった空気。

誰も口にしないが、皆わかっていた。

“今日、歴史が変わるかもしれない”と。


そして、幕が上がる。

最初の独白。


「生きるべきか、死ぬべきか――」


観客席の空気が、まるで深海に沈んだように一瞬で静まり返った。

テリィの声は低く、荒んだ熱を含み、その奥に、どうしようもない孤独が揺れていた。

老人の劇評家でさえ背筋に鳥肌を立てた。

若者は拳を握り、涙ぐむ者もいた。

その瞬間、ロンドンはSMTとは違うハムレットの存在を理解した。


クライマックス。

母と王の寝室。狂気と正気の境目を揺れ動くハムレット。

テリィが叫び、息を呑む観客たちの頭上に魂が剥き出しの芝居が降り注ぐ。

王殺しの瞬間、劇場全体が震えた。


カーテンコール。

観客が立ち上がる。

万雷の拍手。

出口へ向かう前に再び戻る客もいた。

スタンディングオベーションは10分を超えた。

アレックスは袖で泣いていた。

ケビンは深く息をついた。

テリィはただ、静かに一礼し続けた。

翌日の新聞は、ロンドンを揺らした。

《革命的ハムレット。ロンドンは目覚めた》

《SMTの伝統に挑む新たな王子》

《ロンドンの勝利か?二つのハムレット戦争、激化》

《観るべきはどちらか。劇評家10人の議論》

コラムニストは苛烈に煽り、街角のカフェでも議論が巻き起こる。

「SMTは古い、ロンドンが新しい」

「いや、伝統を否定してはならん」

「テリュース・グレアムは怪物だ」

「英国演劇界を壊すかもしれん」

「壊すんじゃない、新しくするんだ」


ロンドン全体が、テリィのハムレットに飲み込まれていくようだった。

・新聞の連載特集

・雑誌の表紙

・ラジオの討論番組

・学生たちの論文テーマ

・街の書店のハムレット特設コーナー

・チケット再販市場の暴騰

・若い俳優志望たちがテリィの真似を始める

もはやただの舞台ではなく、文化現象になっていた。

そして舞台裏で、アレックスは震える声で呟いた。

「……やっぱりおまえだよ、テリュース。俺がロンドンで賭けたかったのは、おまえのハムレットだ」

テリィは黙って笑った。

その笑いには、満足でも驕りでもなく、ただ、役者として生きる者の静かな誇りだけが宿っていた。