1935年の秋。
木々が黄金色に染まり、エイヴォン川に白い靄が立つ頃、シェイクスピア・メモリアル・シアターは満員だった。
白髪の劇評家たちは口を揃えた。
「見事だ。実に正統派だ」
「発声、間。どれも伝統の継承そのもの」
客席からため息すら漏れるほどの見事な出来だった。
だが、若い観客たちは正反対の言葉を交わしていた。
「……すごいけど、驚きはなかったな」
「毎年観てる感じの“いつものハムレット”」
舞台は優雅で整っていた。
だが、あまりに端正すぎた。
新聞は礼儀正しく讃える一方で、若者たちの間では“新しいハムレットはどうなんだ?”という声が上がり始めた。
そしてロンドンでそれが爆発する。
◇
ロンドン、アレックス劇団、SMTより半月遅れで初日を迎えた。
アレックスが積極的に仕掛けた宣伝。
メディアが煽り立てる “ロンドン vs SMT” の構図。
舞台関係者の口コミ。
すべてが絡み合い、初日を迎える前から、ロンドンは熱を帯びていた。
公開前の朝6時。まだ街は霧に包まれている。
なのに、劇場の前には黒い影がびっしりと並んでいた。
「これ……前日から並んでる人もいるらしい」
「アメリカ帰りの俳優か?そんなにすごいのか?」
新聞少年が叫ぶ。
「今日の朝刊!『ブロードウェイの怪物、ロンドンでシェイクスピアに挑む!』『SMTを脅かす新星!』」
ロンドン市民は完全に煽られていた。
◇
薄暗い舞台袖。
テリィは目を閉じ、静かに呼吸を整えていた。
アレックスが近づく。
「準備はいいか?」
「あぁ、いつでもできてる」
ケビンは苦笑しながら肩を叩いた。
「いつものおまえだな」
緊張と期待が混ざった空気。
誰も口にしないが、皆わかっていた。
“今日、歴史が変わるかもしれない”と。
そして、幕が上がる。
最初の独白。
「生きるべきか、死ぬべきか――」
観客席の空気が、まるで深海に沈んだように一瞬で静まり返った。
テリィの声は低く、荒んだ熱を含み、その奥に、どうしようもない孤独が揺れていた。
老人の劇評家でさえ背筋に鳥肌を立てた。
若者は拳を握り、涙ぐむ者もいた。
その瞬間、ロンドンはSMTとは違うハムレットの存在を理解した。
クライマックス。
母と王の寝室。狂気と正気の境目を揺れ動くハムレット。
テリィが叫び、息を呑む観客たちの頭上に魂が剥き出しの芝居が降り注ぐ。
王殺しの瞬間、劇場全体が震えた。
カーテンコール。
観客が立ち上がる。
万雷の拍手。
出口へ向かう前に再び戻る客もいた。
スタンディングオベーションは10分を超えた。
アレックスは袖で泣いていた。
ケビンは深く息をついた。
テリィはただ、静かに一礼し続けた。
◇
翌日の新聞は、ロンドンを揺らした。
《革命的ハムレット。ロンドンは目覚めた》
《SMTの伝統に挑む新たな王子》
《ロンドンの勝利か?二つのハムレット戦争、激化》
《観るべきはどちらか。劇評家10人の議論》
コラムニストは苛烈に煽り、街角のカフェでも議論が巻き起こる。
「SMTは古い、ロンドンが新しい」
「いや、伝統を否定してはならん」
「テリュース・グレアムは怪物だ」
「英国演劇界を壊すかもしれん」
「壊すんじゃない、新しくするんだ」
ロンドン全体が、テリィのハムレットに飲み込まれていくようだった。
・新聞の連載特集
・雑誌の表紙
・ラジオの討論番組
・学生たちの論文テーマ
・街の書店のハムレット特設コーナー
・チケット再販市場の暴騰
・若い俳優志望たちがテリィの真似を始める
もはやただの舞台ではなく、文化現象になっていた。
そして舞台裏で、アレックスは震える声で呟いた。
「……やっぱりおまえだよ、テリュース。俺がロンドンで賭けたかったのは、おまえのハムレットだ」
テリィは黙って笑った。
その笑いには、満足でも驕りでもなく、ただ、役者として生きる者の静かな誇りだけが宿っていた。