稽古が始まってまだ10日。劇団の空気はすでに異様な熱気と緊張に満ちていた。
稽古場の壁に貼られた新聞の切り抜きには、大きな文字でこう踊っていた。
《春、ロンドンで二つのハムレットが激突!
SMT本公演 vs ロンドン『アレックス劇団』
挑戦者はテリュース・グレアム》
アレックスが仕掛けた宣伝戦争だった。
記事は煽るように書かれている。
《英国の誇るSMTの真価が問われる。
対するはアメリカの舞台を席巻してきた若きハムレット。ロンドンで歴史は塗り替えられるのか?》
この見出しが出た日から、稽古場の空気は変わった。
稽古3週目。
動きの確認、間合いの調整、人物像の掘り下げ。演出家も兼ねるアレックスの要求は厳しく、妥協を許さなかった。
だが、もっと厳しかったのは俳優たちの視線だった。
テリィが立つたびに、場が締まる。
一言発するだけで、空気の密度が変わる。
それが、他の俳優たちの神経を逆撫でしていた。
「……やっぱり主役は違うな」
「いや、違いすぎるだろ。俺たちはどうあがいてもあの空気出せねぇよ」
「ハムレットって、あんなに静かに凶暴な役だったか?」
ついには、控えめな声ではなく、棘を含んだ口調が飛び交うようになる。
「アメリカでやってた? だから何だよ。ここはロンドンだ。シェイクスピアの国は俺たちだろう」
「アレックスが外部から主役を引っ張ってきた時点で、最初から勝負になってないんだよ」
ケビンは横でそれを聞きながら、
(こりゃ……めんどくせぇムードになってきたぞ)
と内心で肩をすくめていた。
心理戦は、表立った言葉のほか、行動にも現れた。
ある俳優は、テリィとの掛け合いでわざとテンポを変える。
別の俳優は、テリィの立つ位置にかぶせてくる。
小道具の扱いを乱す者までいた。
表面上は偶然でも、裏にある感情は明らかだった。
それはハムレットの座を奪い返したいではなく、
中心にいる彼を引きずり下ろしたい、そんな空気だった。
ケビンは黙ってテリィの背中を見ていた。
(気づいてるよな……こいつなら)
もちろんテリィはすべて気づいていた。
だが彼は、眉一つ動かさず淡々と芝居を続けた。
それがまた、周囲の神経をさらに逆なでした。
アレックスが記者と密談していた。
記者が言う。
「本当に煽り続けていいんですか?SMTはイギリスが誇る伝統劇場ですよ?」
アレックスは冷たい笑みを浮かべる。
「伝統だけで客は動かない。戦いがあるほうが人は燃えるんだ」
「しかし、SMT側は黙っていませんよ?」
「黙ってなくていい。 反応するということは、うちを対等だと認めることになる」
記者が息を呑む。アレックスは続けた。
「ロンドンの観客に興味を持たせればこっちの勝ちだ。彼らが比べに来て、そして……驚けばいい」
「テリュースのハムレットを?」
「もちろんだ。あいつが舞台の中央に立った時、誰もSMTの名前なんか気にしなくなる」
アレックスの目は、父親譲りの野心と確信で光っていた。
稽古が終わり、俳優たちがロッカールームに戻ったときだった。
テリィの背後で、若い俳優がついに堪えきれず声を上げた。
「なんなんだよ!俺たちが何年これをやってると思ってるんだ!外から来た奴が、いきなり全部持ってくなんて……!」
沈黙。ケビンが振り返る。
「なぁ、それはつまり実力で負けてるって自分で認めてるのと同じだぞ?」
若い俳優の顔が赤くなる。
「違う! 扱いが違うんだ!アレックスは最初からテリュースにしか興味ねぇんだ!」
その瞬間、テリィがゆっくりと振り向いた。
冷たくもなく、怒ってもいない。ただ静かで、深い声だった。
「……アレックスが俺を選んだのは、俺のこれまでの努力だ。君の努力が足りないと言ってるわけじゃない。だが、俺の舞台を見て、納得できないなら……俺を超えてみろ。文句は、それから言え」
俳優が言葉を失った。
ケビンは、心の中で
(あーあ……言っちまったよ)
と頭を抱える一方で、
(でも、これでいい)
とどこか誇らしげだった。
翌日、新聞に新たな記事が載る。
《ロンドンのハムレット、稽古場で火花。
主演テリュース・グレアムに嫉妬の嵐》
《SMTと比較されるプレッシャーの中、
テリュースの演技は揺るがず》
この記事はアレックスの意図通り、ロンドン中の期待を一気に煽り立てた。
ロンドンの街角で、劇場前で、カフェで、会話の端々に“ハムレット戦争”の噂が混じるようになった。
夜、稽古場が静まり返った後。
テリィはひとり残り、舞台中央に立っていた。
広い空間に、彼の影が長く伸びる。
「どこへ行っても、こうなるんだな」
その背中を見て、ケビンが後ろから声をかけた。
「嫉妬ってのは、期待の裏返しなんだって。ほら……あのアレックスでさえ、三銃士のとき、嫉妬を抱いてたからな」
テリィは笑わなかったが、少しだけ目を細めた。
「嫉妬も悪くはない」
「だな、いい意味で働けば。じゃあ、おまえに勝ちたい奴らに“届かない高さ”を、もっと見せつけてやれよ」
テリィは短く息を吐き、言った。
「……おまえがいると、楽だな」
ケビンは肩をすくめる。
「相棒だと思ってるから、当然だよ」
こうして、ロンドンの劇団は、嫉妬と緊張と、期待と野心が入り混じる中で、初日へ向けて加速し始めた。