ロンドン北部。

霧雨に濡れた石畳の先に、古いレンガ造りの稽古場が建っていた。外観は地味だが、一歩足を踏み入れると空気が違う。

木の床は磨き込まれ、壁にはシェイクスピア上演のポスターが貼られ、その奥には新しい歴史を刻むための静かな熱が満ちていた。

今日は、アレックスの劇団が来春公演する『ハムレット』の稽古初日。

扉が開き、テリィとケビンが入ってきた瞬間、稽古場の温度がわずかに上がった。

「あれが……テリュース・グレアム?」

「本物だ……ロンドンにいるって噂は聞いてたけど」

「隣にいるケビン・マクグラスも注目されてた同世代の俳優だ」

ざわめきはすぐに消えたが、視線の鋭さが彼らの存在を物語っていた。


テリィは淡々と稽古場を見渡す。

木枠の高い天井、空気の匂い、床の軋む感覚。舞台とは違うが、ここもまた戦場だった。

彼の横でケビンが小声で言う。

「なんか、思ってたより緊張するな。ロンドンっぽい空気ってやつのせいか?」

「俺はもう慣れた」

やがて、革靴の音を響かせながらアレックスが姿を現した。

まるで舞台に立つ俳優のような身振りで中央に立つ。

「諸君。今日から『ハムレット』の稽古が始まる。そしてテリュース・グレアムが、うちのハムレットを演じる」

その名が出た瞬間、空気がわずかに震えた。

アレックスは続ける。

「彼はSMT本公演の対抗馬として招いたわけではない。私もかつて彼らと共演したが、ロンドンにいるならば、ロンドンで最高のハムレットを演じてほしいと思ったからだ」

強い視線が、テリィと、そしてケビンに向けられる。

「そして、ホレイショーはケビン・マクグラスだ。テリュースとのコンビネーションは群を抜いている。うちは二人を迎えた。異論は認めない」

後方でざわりと動く俳優たち。

特にホレイショー候補だった数名は複雑な顔をしていたが、アレックスが即座に壁を作るように言った。

「選考は終わったということだ。あとはこの作品を最高の形に仕上げるだけだ」

その言葉に、場が引き締まる。

丸テーブルを囲み、脚本が一斉にめくられる。

紙の擦れる音だけが響き、全員が緊張で息を潜める。

テリィは脚本を見つめながらも、ページをめくる指がどこか静かだった。

ブロードウェイで数百回と演じたあのハムレット。

今回は、招かれての公演。

その意味は、彼の胸に重く深く響いていた。

アレックスが声を落とす。

「じゃあ、ハムレットの最初の独白から始めよう。テリュース、頼む」

静寂。

テリィは息を吸い、ほんの一瞬だけ瞼を下ろした。

次に開いたとき、その眼差しはもうハムレットのものだった。

低く、深い響きが稽古場に満ちる。

「ああ、このあまりにも重く固いこの肉体が、いっそ溶けてしまえば……」

俳優たちの背筋が粟立つ。

声はまだ全力ではない。

しかし、深みと孤独と、未だ形にならない狂気が、その声の温度にすべて滲んでいた。

ケビンは横で息を呑む。

(何度立ち会っても、こいつのハムレットは別物だ)

本読みが進むにつれ、誰もが気づき始めていた。

今日、この稽古場に中心が生まれた。

テリュース・グレアムという名の、揺るぎない中心が。


アレックスは腕を組み、誰よりも満足げにその姿を見ていた。

(やっぱり……彼しかいない。ロンドンでハムレットをやるなら、主役はこの男しかありえない)


続いて、ホレイショーとの対面のシーンに入る。

「テリュース、ケビン。ふたりの呼吸を確認しよう。君らのテンポが、この劇の核になる」

ケビンは片眉を上げた。

目線を合わせた瞬間にスイッチが入る。

テンポ、呼吸、立ち位置。

二人の間には、ブロードウェイで培った戦友としての空気が自然に流れた。

稽古場の俳優たちがざわつく。

「……すげぇ、今初日だよな?」

「動きもタイミングも、まるで何度も共演してるみたいだ」

「いや、共演してんだよ、ニューヨークでは」

アレックスは胸の奥で静かに燃えるものを感じていた。


全体稽古が終わり、俳優たちが散っていく中、アレックスはテリィとケビンを呼び止めた。

「ふたりとも、今日はありがとう。初日からこれだけの芝居を見せてもらえるとは思ってなかった」

ケビンが肩をすくめる。

「まだ本読みだけど、これからさらに上けてくよ」

アレックスの視線が柔らかくなる。

「テリュース、ケビン……君たちを迎えられたこと、本当にうれしいよ」

テリィはまっすぐアレックスを見た。

「ロンドンで最高のハムレットを作る。そのつもりだ」

アレックスはその言葉に、かすかに喉を鳴らした。

「最高の……ハムレットをな」

三人の視線が重なる。

ロンドンの小さな劇団の稽古場に、確かな時代の風が流れた。