昨晩、テリィはケビンに言った。
「ジャレッドと並べてローリーを演じることになる。実質、軽いオーディションみたいなものになるだろうな」
「だよな」
「発音を整えたほうがいい。観客は全員イギリス人だ」
「お、おぅ……やってみるよ」
ケビンは深く息を吸い込み、わずかに顎を引く。台本を手に取り、ローリーの第一声を発した瞬間……
テリィの眉が、わずかに動いた。
(……ん?)
耳がその違いを先に捉えた。
ケビンの声質はいつもと同じだ。だが、その語尾の処理、母音の抜き方、子音の立て方。
(イギリス英語の……舞台発音?)
ほんの一拍だけ、テリィは台詞を忘れそうになったほどだった。
ケビンは、息を整えながら次の一文を続ける。
「夜が明けたら……俺は戻る。……そうでも言わなきゃ、おまえをここに置いていけない」
自然体なのに、不思議とロンドンの俳優が発する柔らかい響きに近い。
テリィは思わず、彼の顔を見つめた。
(こいつ……いつの間に)
ケビンがちらりとテリィを見返したが、気づいていない。その必死さも、また胸を打った。
テリィは心の奥で小さく呟いた。
(まさか……練習してたのか?……ケビン、おまえ、本当に……)
言葉にするのは照れくさすぎた。
ただ、その瞬間、テリィの中でケビンをローリーとして迎えたいという思いが決定的なものに変わった。
◇
分厚いカーテンの向こうで、雨音が静かに響いていた。
テリィは机の前に立ち、劇団オーナー、ハロルド・モンターギュ氏と向かい合っていた。
「お願いがあります」
低い声が、静かな部屋に落ちた。オーナーが眉を上げる。
「どうしたのです、グレアム氏。稽古の進みが悪いのですか?」
「いいえ。ジャレッドの努力には感謝していますですが、この作品は、魂が噛み合っていなければ成立しない。共に創るには、ローリーにケビン・マクグラスという男を置くしかないんです」
オーナーは手にしていたペンを静かに机に置いたその表情に、驚きよりも理解の色が浮かんでいる。
「彼のことは覚えています。ニューヨークであなたと共演していた青年ですね。あの舞台を観た夜のことは、いまだに忘れられません。もし彼と再び組むなら……私は異論はありませんが、今から交代となると批判があるかもしれないですね。それでもと言うなら、私は構わないです」
「ありがとうございます。」
テリィが深く頭を下げた。そして、言葉通り、容易に事は運ばなかった。
◇
翌日。オーナーの決定を聞かされた劇団内は、ざわめきに包まれた。
特に、ジャレッド・カーターは机の上の台本を握りしめ、黙っていた。
「納得できないな」
その声には怒りよりも、深い悔しさがあった。
テリィは彼の前に立った。
「ジャレッド、君の努力は本物だ。だが、これは私のわがままでもある。作品を中途半端にしたくない。ただ、それだけなんだ」
ジャレッドは視線を上げる。
「僕では、足りないということですか?」
「違う。ケビンはこの作品の原点なんだ。彼がいたから、今の僕の大尉がある。もう一度立つならば、最初から本当の形で立ちたい。」
稽古場の空気が重く沈む。
そこに、監督のエドガー氏が入ってきた。
「いいだろう。ではこうしよう」
彼は脚本を掲げ、二人を見渡した。
「どちらがローリーを演じるか、私が見極める。同じ場面を、交互に演じてみなさい」
ジャレッドの目がわずかに光った。
「公平な判断を、お願いします」
「もちろんだ」
舞台中央。照明がひとすじ、静かに落ちる。
場面は終盤、夜明けを前にして二人の兵士が別れを告げるシーン。
ジャレッドが先に立つ。
「夜が明けたら、俺は戻る。必ず」
声は通る。表情も整っている。だが、そこに死の匂いも希望の影もなかった。
次にケビンが立つ。
テリィが大尉として向かい合う。ケビンは低く息を吐き、静かに言った。
「夜が明けたら……俺は戻る。……そうでも言わなきゃ、おまえをここに置いていけない」
その瞬間、テリィの胸の奥が熱くなった。
声が重なった。
目の奥で、何かが共鳴した。
照明係が息を呑み、オーナーが椅子から身を乗り出した。空気が、まるで生き物のように震えた。
最後の台詞が終わると、静寂の中に、拍手のような雨音が響いた。
エドガー監督がゆっくりと立ち上がる。
「……決まりだ」
ジャレッドは目を閉じた。
その唇は、わずかに笑っていた。
「やはり、あなたたちの“Before Dawn”だ」
2月末、イギリス版Before Dawnが『ジャーニーズ・エンド』と演目名を変え、初演を迎えることになる。
誰もいなくなった舞台の上で、テリィとケビンは並んで座っていた。
「悪いな、なんだか巻き込んじまって」
「何言ってんだよ。おまえが呼んでくれたんだ。俺はずっと、もう一度おまえとやりたかったんだ」
照明の残光が二人の肩を照らす。
テリィは静かに言った。
「今度の夜明けは、ロンドンで迎えることになりそうだ」
ケビンは笑った。
「おまえとなら、どこの空でも悪くないさ」
外では、雨が上がっていた。
雲の切れ間から光が差した劇場の屋根に淡い金色の筋を描いていた。
それは、まるで彼らがもう一度掴もうとしている夜明けそのものだった。