ロンドン芸術座の稽古場には、木の床を叩く靴音と、台詞を読み上げる声が響いていた。

テリィは主役の大尉役として立っていた。

その隣に立つのは、準主役ローリー役のジャレッド・カーター。

長い手足に整った顔立ち、立っているだけで絵になる俳優だ。

だが、どうしても、何かが足りなかった。

「ローリーの台詞、“夜明けを恐れているんじゃない、失うのが怖いだけだ”その言葉には、怒りが混じっているはずです」

テリィの声は穏やかで、けれど鋭さを帯びていた。

ジャレッドは小さく眉を寄せる。

「怒り、ですか……?」

「ええ。希望を信じながら、それを裏切る現実への怒りです。ブロードウェイでケビン……いや、そのローリーは怒鳴りたいのを喉の奥で押し殺していた」

その名を口にした瞬間、テリィの中であの舞台の光景がよみがえった。

硝煙の匂い、照明の熱、そして、ローリー役のケビンが放った息。

舞台袖で目を合わせたときの、あの真剣な眼差し。


ジャレッドは少しの沈黙ののち、言葉を絞り出す。

「あなたの言う“怒り”が、わかる気がします。

 でも、それを表情に出す勇気が……まだ」

テリィは首を振った。

「無理に作らなくていい。ローリーは“生きて”怒る男です。演じるんじゃなく、生きてみてください」

ジャレッドは深く息を吸い、頷いた。

稽古場に静寂が落ちる。

それは、ようやく本当の芝居が始まる音だった。

その夜。

霧の降りたロンドンの通りを、ガス灯の灯が淡く照らしていた。

テリィとキャンディの住むタウンハウスの窓からは、暖炉の火が外までこぼれている。

食後、テリィはワイングラスを傾けながら、台本を膝の上で軽く叩いた。

「人が変わると、舞台がまるで別のものになるんだ。ジャレッドは優秀な俳優だが……ケビンのローリーとは違う。同じ言葉なのに、届く場所が違うんだ」

キャンディは紅茶を手に、微笑みながら聞いていた。

「あなたがそう感じるのは、それだけケビンさんが印象深かったからね」

「そうかもしれない。あいつは、あの舞台で自分を全部さらけ出してた。生きてたんだ、役の中で」

キャンディは頷き、静かに微笑んだ。

その夜、彼女はケビンの妻で同じポニーの家出身のエミリへ手紙を書いた。


Before Dawn』がロンドンで再演されるそうですよ。

テリィが言うには、俳優が変わると舞台全体の空気が違って見えるのだとか。

舞台って、本当に生き物みたいなんだね。


インクを乾かし、封筒を閉じながら、キャンディはふと、ニューヨークでの熱い日々を思い出していた。



ケビンは、エミリから預かったキャンディの手紙を胸ポケットからそっと取り出し、そこに書かれた住所を馬車の御者に示した。

《ロンドンW8ケンジントン・コート77番地 

  キャンディス・W・グランチェスター》

差し出されたものを見た御者が、わずかに背筋を伸ばしたのがわかった。

「あの……そんな大層な家なのか?」

「そりゃもう。ロンドンでも指折りの名家です」

馬車がケンジントンの大通りを進むにつれ、ケビンの胸の鼓動は少しずつ早まっていった。

(テリィが……ここに? 本当に?)

角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、石造りの壮麗なタウンハウスだった。

陽が差すたびに、白い外壁が静かに輝きを返す。

玄関前の重厚な階段には磨き込まれた手すりがあり、扉の上には紋章が刻まれ、ケビンがニューヨークで見たどんな住宅とも違う威厳があった。

馬車が止まると、黒い服を身に着けた執事が静かに現れた。

「お客様、ようこそお越しくださいました」

その一言だけで、ケビンの背筋が思わず伸びる。


(うそだろ……? テリィ、おまえ……こんな世界で暮らしてたのかよ……)

テリィがイギリス貴族の出だと結婚式のときに知った。

だが貴族という概念が実感として掴めないアメリカ人のケビンには、この建物と執事の立ち居振る舞いが、まるで舞台のように見えた。

玄関まで導かれながら、ケビンはそっと呟いた。

「……おまえ、ほんとに……お坊ちゃんだったんだな」

しかしそれは驚き半分で、テリィがニューヨークで一言も自分の背景を誇らなかったことへの、密かな尊敬半分でもあった。


執事のヘンリーに案内された客間でケビンは待っていると、テリィより先に現れたのはキャンディだった。

「……ケビンさん?!」

キャンディが驚きの声を上げる。

ケビンは苦笑しながら帽子を取った。

「久しぶりだね、キャンディ。驚かせちゃったかな?」

「ええ、もう、びっくり! ど、どうしてロンドンに?」

「エミリが……いや、正確に言えば、君の手紙を読ませてくれてな。 テリィがまた“Before Dawn”やってるって聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ。どうしてもあいつの大尉をこの目で見たくて、来ちゃったというわけ」

その声の奥には、懐かしさと決意が入り混じっていた。

急ぎ足で階段を降りてきたテリィが驚きの声を上げる。

「ケビン?!どうしたんだ?!」

互いの視線がぶつかる。かつて同じ舞台を立った者だけが知る沈黙が流れた。


「まさか、ロンドンに来るとは……」

「おまえに会いたかったんだ。……それと、あの大尉にも……」

テリィは小さく笑う

「そっか……。ま、座れよ。疲れただろ?」

「おう、サンキュー」

家の中には暖炉の音と、再会した二人の低い笑い声だけが残った。