じつはこの数ヶ月、タウンハウスの裏側では、小さな波紋が何度も広がっていた。

ニューヨークで長く自分の手で暮らしてきたキャンディは、ロンドンに来てもつい、洗濯物を庭に干したり、子どもたちの靴を玄関で磨いたり、キッチンで皿洗いを手伝おうと台所に入ったりしてしまう。

当人に悪気などない。むしろ、働く人々への敬意と、「一緒に暮らしているのだから、私にもできることを」という思いからくる自然な行動だった。

しかし、古参のメイド長ベネットは、何度も胸に手を当てていた。料理人ハドソンも、眉間に皺を寄せることが増えていた。

「奥さまが皿を洗ってしまわれては、私どもの仕事が奪われます」

「貴族の奥さまが雑事をなさるのは、この家の格式が揺らぎます」

二人にとってキャンディは、決して嫌う相手ではない。むしろ明るく、礼儀正しく、優しい、理想的な奥方だと感じている。ただ、“してはいけないことを善意でやってしまう”、その一点が、どう扱っていいかわからず、困惑の種になっていたのだ。

それはキャンディが自由すぎるからではない。ニューヨーク式の「みんなで支え合う暮らし」とロンドン式の「役割を守ることで家を保つ暮らし」、その文化の違いが、静かに軋みを生んでいたのである。

ベネットも、ハドソンも、悪意ではなく職務への誇りから出た反応だった。互いに良かれと思っての行動である分、その軋みは言葉にしにくく、キャンディ自身も気づかぬまま、見えない壁ができていた。

そんなある日。ロンドンの午後は、重たい雲に覆われていた。庭の芝をぬらす細い霧雨の中、テリィは書斎の窓辺に立っていた。

廊下のほうから、低い話し声が聞こえてきた。かすかに笑いを含んだ声。テリィの耳が、自然とそちらに傾く。

「……まったく、あの奥さまときたら。洗濯物を外に干されるなんて。」

「公爵さまのお孫さまのお母上が、あんなふうに……」

「ミセス・ベネットがどんなに注意しても聞かれませんからねぇ。」

最初に声をあげたのは料理人のハドソン。その隣で、庭師のグラントが相づちを打ち、ミセス・ベネットが、溜息まじりに言葉を添えた。

「テリュース坊ちゃんに恥をかかすような真似だけは、してほしくないのです。あの方はお優しいから、何もおっしゃらないけれど。」

テリィは胸の奥に、冷たい痛みが走る。彼らの悪意は、根からのものではないとわかっている。けれど、その無意識の言葉が、どれほどキャンディを傷つけるか。静かにドアを開けると、三人の使用人が振り向いた。空気が止まる。

「……随分、賑やかだな。」

テリィの声は低く、静かだった。その静けさが、かえって鋭い。

「ミセス・ベネット。」

「はい、坊っちゃん。」

「君たちが何を思っていようと、口にしていいことと悪いことがある。俺の妻に向けた言葉は、すべて俺に向けたものと受け止める」

三人は青ざめた。テリィは一歩、彼らの前に進む。

「彼女を笑うということは、この家の“誇り”を笑うのと同じだ。」

しばし沈黙。雨の音だけが、ガラスを叩いていた。やがて、ミセス・ベネットが唇を震わせながら頭を下げた。

「……申し訳ございません。奥さまに対して、わたくしたち、行き過ぎた口を……。」

「謝る相手は俺じゃない。キャンディにだ。」

そう言い残して、テリィは背を向けた。廊下を歩きながら、拳の中に爪を立てる。怒りではなく、悔しさだった。キャンディがこの屋敷でどれほど肩に力を入れていたのか。

その夜。ダイニングの灯りがやわらかく揺れていた。キャンディはいつものように、子どもたちの話を楽しそうに聞いている。

笑っている。けれど、その笑顔の下に、わずかな疲れが見えた。子どもたちを寝かしつけて戻ってきたキャンディに、テリィは言った。

「今日、屋敷の者たちの話を聞いた。」

キャンディの手が、ふと止まる。その表情には驚きと、少しの悲しみ。

「……聞いちゃったのね。」

「どうして黙ってた。」

「あなたに心配かけたくなかったの。私のことより、ここで俳優として……」

「そんな理由できみが我慢をするな。」

テリィの声は静かだが、深く響く。

「俺にだって、守りたいものがあるんだ」

キャンディは目を伏せ、少しして笑った。

「……怒ってるの?」

「怒ってない。悔しいだけだ。」

彼は椅子から立ち上がり、キャンディの肩を引き寄せる。

「……俺たち家族が、ニューヨークのように幸せに暮らすためにイギリスに来たのに。こんな思いをさせるなんて、俺の望んでたことじゃない。」

その声には、怒りではなく痛みが滲んでいた。キャンディはうつむきかけ、すぐに顔を上げて微笑んだ。

「大丈夫よ、テリィ。ここはあなたの故郷だもの。あなたがいる世界なら、わたしは平気。……それに私、そういうことはニールとイライザで免疫あるじゃない……?」

けれど、その笑顔の奥にほんの一瞬、影が差した。彼女の瞳は、窓の外の霧に揺れる街灯を見ていた。

本当は、少しだけ寂しい。それでも、家族を支えるためなら笑っていよう。キャンディは自分に言い聞かせる。

テリィはその横顔を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを抱いたまま、言葉を飲み込んだ。彼女の強さと優しさが、時にいちばん脆いものだと知っているから。

テリィは、そっとキャンディの手を取った。その手のひらは少し冷たく、けれど確かに温もりがあった。

「キャンディ、我慢しなくていいんだ」

彼はゆっくりとその指を握りしめた。

「俺は、地位も名誉も、俳優としての誇りも、きみが笑ってくれるなら、何もいらない。だから……俺の前では我慢しないでほしい」

キャンディの唇がわずかに震えた。

「そんなこと言われたら、泣いちゃうじゃない……」

そう言いながら、堪えていたものが零れ落ちた。彼女の頬を伝う涙を、テリィは口づけで拭う。

「本当はね、少し怖かったの。この国の常識とか、格式とか、わからないことばかりで。でも、テリィがいるから大丈夫だと言い聞かせて……」

テリィは静かに彼女の髪を撫でた。

「怖い思いをさせてたのは、俺だな」

「違うわ……あなたのせいじゃない。ただ、もう少し、うまくやりたかっただけなの」

テリィは彼女の額に軽く唇を触れさせた。

「……ありがとう、キャンディ。」

窓の外では、夜が明けようとしていた。

霧が少しずつ晴れ、ロンドンの石畳が淡く光を帯びていく。

翌朝。グランチェスター公爵家タウンハウスの大広間には、全ての使用人が整列していた。皆、張り詰めた空気を感じながら背筋を伸ばしている。

テリィは一歩前に出た。黒のスーツに、開いた喉元のシャツ。その姿は貴族ではなく、ニューヨークで生き抜いたひとりの男だった。

「昨日のことだが。俺の妻が、これまでどんな思いをしていたか、話を聞いた」

誰も答えなかった。ベネットの指が、わずかに揺れる。テリィはゆっくりと視線を巡らせた。

「俺はグランチェスターの人間だが、爵位を持っているわけじゃない。公爵の息子としてここにいるが、俺はただの俳優だ。ニューヨークでは、通いの家政婦がひとり。家族四人で十分にやってきた。だから、ロンドンだからできないということはない。俺たち家族には家族のルールがある」

その声は静かで、しかしどこまでも通った。

「これに賛同できない者は、本宅へ戻ってもらって構わない。」

ざわりと空気が動いた。ベネットが唇を噛みしめ、ハドソンが目を伏せた。数秒の沈黙ののち、ベネットが前に出た。

「……テリュース坊ちゃん。申し訳ございません。わたくし、奥さまを“外から来た方”として見ていました。……奥さまはいつも私たちを気にかけ、お声をかけてくれいたことを、忘れておりました。私たちは調子に乗っておりました」

ベネットの声が震えた。

「……恥ずかしいことです。わたくしたちが大切にふるのは格式ではなく、そのお心でした。」

ハドソンとも、帽子を胸に当てて頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、旦那さま。奥さまは……本当にとてもお優しい方です。」

テリィは、ゆっくりと頷いた。

「もう一度だけ言う。この家は俺たち家族の“家”だ。上下ではなく、互いに支え合う場所にしたい。」

その瞬間、張りつめていた空気がふっと和らいだベネットは深く一礼し、静かに言った。

「承知いたしました。奥さまを、心よりお守りいたします。」

その夜。キャンディが庭のベンチで夜風にあたっていると、屋敷の明かりがふっと柔らかく見えた。

キッチンからはパンを焼く香ばしい匂い。遠くで子どもたちが笑っている。

テリィがそっと彼女の隣に腰を下ろした。

「どうやら、きみの笑顔がまた戻ったみたいだ。」

キャンディは微笑みながら、彼の肩に頭を預けた。

「……うん。みんな、少し優しくなった気がするの。」

「そうだろうな。きみの強さが、やっと伝わったんだ。」

二人の視線の先で、タウンハウスの窓明かりがやさしく揺れていた。ロンドンの夜に、新しい家族の温もりが灯る。