秋の陽が少しずつ傾き始めた午後。
セントポール学院の湖には、白い帆を掲げたボートが並び、水面にゆるやかな波紋を描いていた。
レガッタの授業。
男子生徒たちが艇を競わせ、女子生徒たちは桟橋や湖畔から声援を送る。
華やかな授業のはずなのに、シャルルの胸の奥は、ひどく静まり返っていた。
向かい風の中、オールを握るテリュース・G・グランチェスターの姿が見える。
濡れた前髪が額に貼りつき、白いシャツの袖を捲った腕が、光を受けてしなやかに動く。
水を切る音。歓声。
そのどれもが、シャルルの耳には遠く響いた。
湖畔の観客席。
制服の上から薄いショールを羽織ったキャンディが、小さく手を振っていた。
彼女の頬に当たる光は柔らかく、その瞳は、テリィだけを見ていた。
声を張り上げるでもなく、名前を呼ぶでもなく、ただ、その目の奥が語っていた。
(……ああ、わかった)
シャルルの胸に、冷たい風が吹き抜けた。
その一瞬で、彼は自分がどんなに願っても、彼女の気持ちの行き先はもう決まっているのだと悟った。
試合が終わるころには、風も凪ぎ、湖面に薄い金色の光が滲んでいた。
歓声が上がり、勝者たちが肩を組んで笑う。
テリィは仲間に囲まれながらも、ふと桟橋のほうを見た。
そこにはキャンディの笑顔があった。
彼は静かに帽子を取って軽く掲げた。誰にもわからないように、さりげなく。
でもシャルルには、わかった。
数日後の放課後。
学院の裏庭はもう秋の色に染まり始めていた。
紅葉の葉が風に乗り、石畳に舞い落ちる。
シャルルはその中を歩いていた。
角を曲がると、古いアーチの下にテリィが立っていた。
制服の襟元を緩め、ただ空を見上げている。
「……探していたんです」
シャルルが声をかけると、テリィはゆっくり振り向いた。
「俺を?」
「ええ。少し、話がしたくて」
ふたりは並んで歩き、湖の見える回廊に出た。
風が吹くたび、水面に浮かぶ落ち葉がゆるやかに揺れる。
「レガッタの日……見ていました」
シャルルの声は穏やかだった。
「キャンディの顔を見て、わかりました。彼女が誰を見ているのか」
テリィは何も言わなかった。
ただ、ポケットに手を入れたまま、靴先で小石を軽く蹴る。
「だから、告白はしないことにしました」
「……どうして」
「言っても、何も変わらないと思ったからです。それに、君があのとき、彼女を守るために僕に頭を下げた姿を見てしまったら……あの誠実さには……敵いません」
沈黙。
風がふたりの間をすり抜けていく。
「だけど、君に負けたと思ってはいません」
シャルルが続けた。
「僕はただ、“彼女を好きだった”という事実を、自分の中にちゃんと残しておきたいだけなんです」
テリィは目を細めた。
その表情には、かすかな哀しみと敬意が混じっていた。
「……そこには俺は踏み入ることはできない」
低く答える。そして、
「俺も、簡単に手に入れたわけじゃない。何度も失って、ようやく今、彼女の笑顔を見られる場所に立ってるだけだ」
「わかっています」
シャルルは微笑んだ。
「だから、僕はもう何も言いません」
ふたりはしばらく無言のまま、湖面を見つめていた。
水に映る空は、透き通るように青かった。