7月。夜のグランド・セントラル・ターミナルには、初夏の爽やかな風が吹き込んでいた。大理石の床に光が反射し、天井の星座が青白く輝いている。
構内の時計が午後七時を指す頃、ニューヨーク発シカゴ行きの特急列車……『20th Century Limited』が、静かに入線した。プラットフォームには赤いカーペットが敷かれ、制服姿のポーターたちが乗客を出迎えている。
テリィは帽子を軽く押さえながら微笑んだ。
「さあ、乗ろう」
オリヴァーは列車を見て目を輝かせた。
「わあ……ながい! いくつもおうちがつながってる!」
「汽車のおうちだよ」
オスカーが兄の言葉をまねて笑う。
改札を抜けると、車掌が敬礼をして出迎えた。
「グレアム様、ご家族の寝台は七号車でございます」
寝台車は厚い絨毯が敷かれ、真鍮の手すりと木目の壁が柔らかな灯に照らされていた。個室のドアを開けると、ソファが二段ベッドに変わる仕組みになっている。
「まぁ、まるでホテルね」
キャンディが感嘆の声をあげると、テリィは窓のカーテンを少し開けた。
「ほら、出発の合図だ」
短い汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き出す。プラットフォームの赤いカーペットが流れ、ニューヨークの灯が後ろへ遠ざかっていった。
◇
夕食の時間になると、家族は食堂車へ向かった。銀のカトラリー、白いクロス、磨かれた木のテーブル。車窓の外を夜の街の明かりが流れていく。
オリヴァーは外を指差して言った。
「お母さん!あっちも汽車だ!」
「そうね、すれ違ったのね」
ウェイターがスープを運んできて、金の縁の皿に注いだ。香ばしいパンの香りとともに、窓の外には星がひとつ、またひとつと現れる。キャンディはその星を見ながら、そっとつぶやいた。
「こうして家族で旅をするの、初めてね」
「こういう時間を持てるのはとても貴重だ」
テリィはワインを軽く傾け、子どもたちに目を向けた。ふたりは早くも笑い合っていた。
◇
翌朝。汽笛の音とともに、シカゴへ到着を告げる車内放送が静かに響いた。
窓の外は金色の朝日。遠くに広がる湖面が光を反射し、街の屋根の上には薄く靄がかかっていた。
オリヴァーが目をこすりながら身を起こした。
「うわー、おっきいまちだ!」
キャンディはカーテンを開け、子どもたちに笑いかけた。
「おはよう。アルバートおじさんのおうちはもうすぐよ」
「アルバートおじさんに早く会いたいな」
「ええ。駅でジョルジュおじさんがきっと待ってるわ」
列車がゆっくりと減速し、ホームの人影が近づいてくる。磨かれた制服のポーターたちがドアを開き、夏の風が流れ込んだ。降り立ったプラットフォームには、すでにジョルジュが立っていた。手袋越しに帽子を持ち上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
「キャンディス様、グランチェスター様、お待ちしておりました」
「ありがとう、ジョルジュ。元気そうでなによりだわ」
「またよろしくお願いします」
テリィが帽子を取り会釈する。ジョルジュは子どもたちに視線を落とした。
「オリヴァー坊ちゃま、オスカー坊ちゃま。ようこそ、シカゴに」
「こんにちは!」
オリヴァーが元気に頭を下げ、オスカーは少し照れながらキャンディのスカートの裾を掴む。
「立派になられましたな。さ、車がこちらに」
車窓から見えるシカゴの街は、近代の息吹に満ちていた。高層ビルが立ち並び、街路には自動車が列をなし、カフェや劇場の看板が並ぶ。キャンディは窓越しにその景色を見ながら、ふと呟いた。
「少し変わったのね」
「世界が動いてる。俺たちも、止まってるわけにはいかないさ」
テリィが穏やかに言う。
アードレー家の邸宅が見えてきたとき、子どもたちは思わず歓声を上げた。白い外壁に、大きな窓。公爵家の古典的な屋敷とは違い、ガラスと石造りのモダンな造形。広大な庭には噴水と並木道。
「わぁ……おっきい!」
「すごい……ここ、おうちなの?」
オスカーの目がきらきらと輝く。
「さぁ、着きました」
ジョルジュが車のドアを開けると、夏の香りが風に乗って流れ込んだ。玄関で出迎えたのは、執事と数名の使用人たち。
「ウィリアム様はサロンでお待ちです」
重厚な扉を開けると、陽光が差し込むサロンに、アルバートとアリスがいた。柔らかなベージュの絨毯、アールデコ調のランプ。
壁には近代画家の作品が並び、柱時計が静かに時を刻んでいた。
「ようこそ。待っていたよ」
アルバートの笑顔に、キャンディの表情がほころぶ。子どもたちは、アルバートに駆け寄り抱きついた。
「お久しぶりです、アルバートさん。アリスさん」
「まぁ、ようやく会えましたわね!」
アリスは立ち上がり、キャンディの手を取った。
「あなたたちが来てくださって嬉しいわ。旅は大丈夫だった?」
「ええ。子どもたちも元気で」
そのとき、奥のほうから小さな笑い声がした。
「パパ! 来た!」
三歳になった双子の男の子が、ナニーに手を引かれて入ってきた。
「まぁ……!」
キャンディが思わず手を胸に当てる。同じ年頃のオスカーと見比べて、笑顔がこぼれる。
「こんにちは。はじめまして」
「はじめまして!」
オリヴァーがぴょこんとお辞儀をし、双子も真似をしてぺこりと頭を下げる。その様子に、大人たちの間に笑いが広がった。やがて、使用人たちが子どもたちを庭へ案内した。
「動物たちがおります。うさぎや子馬も」
「ほんと! 行く!」
オスカーが歓声を上げ、オリヴァーが手を引く。ナニーたちに連れられ、子どもたちの姿が庭へ消える。
部屋が静かになると、テリィが姿勢を正した。
「アルバートさん、アリスさん。今日は、ご挨拶に伺いました。僕たちは再来月、イギリスへ渡ります」
アルバートは頷き、深く目を細めた。
「遠くへ行ってしまうのは寂しいけど、どこにいても君たちと僕たちは家族だ。いつでも戻ってきていいからね」
「ありがとうございます」
キャンディが小さく頭を下げる。その横顔に、テリィがそっと視線をやった。
執事の案内で、二人は屋敷の奥へ向かった。
廊下の突き当たり、静かな応接室。
エルロイ大叔母さまが椅子に腰掛け、手には銀の杖を持っていた。長年の歳月を経ても、その眼差しには威厳が宿っている。
「……渡英の挨拶に参りました」
キャンディが頭を下げる。エルロイはじっと二人を見つめ、しばらく沈黙ののちに言った。
「気をつけて行きなさい」
その声は厳しく聞こえたが、言葉の端には優しさが滲んでいた。キャンディは胸の奥が熱くなり、深くお辞儀をした。
応接室を出ると、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。庭では、オリヴァーが白いポニーに手を伸ばし、オスカーがうさぎを追いかけている。
双子とすぐに打ち解け、芝生の上で転げ回って笑っていた。
キャンディはその光景を見て微笑む。
「あの子たち、仲良くなれそうね」
テリィが隣で言った。
「初めて会ったのに、もう昔からの友達みたいだ」
アルバートとアリスが庭に出てくる。
「今夜はゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
テリィが微笑む。夕暮れの光が、彼の栗色の髪をやわらかく照らした。
遠くでは子どもたちの笑い声。夏の匂いを乗せた風が庭を通り抜け、噴水の水音が静かに響いていた。