夏の午後。グロスターの館は、陽射しに包まれていた。

青い空の下、芝の匂いとラベンダーの香りが風に混じる。

その静けさを破ったのは――

「ぼーち、ないっ!」という甲高い声だった。

オスカー二歳。小さな足で庭を走り回り、両手をぱたぱたさせながら訴える。

「ぼーち! ちゅるちゅる(=リボン)!」

帽子が見当たらないらしい。

メイドの一人が慌てて駆け寄る。

「まあまあ、どうしたの坊ちゃま?」

オスカーは眉を下げて両手を丸く広げる。

「まる、ない……」

その仕草に、近くにいた執事ヘンリーも苦笑した。

「お帽子ですか。たしか、昨日は噴水の後ろに……」

だが今日は、そう簡単には見つからなかった。

そのころ、裏庭では庭師が池の手入れをしていた。

そこへ小さな声が響く。

「……あっ!」

見ると、風に揺れる水面の上に、青いリボンの麦わら帽子がぷかぷかと浮かんでいた。

オスカーの瞳がまんまるになる。

「ぼーち!」

次の瞬間、小さな体が駆けだした。

「お坊ちゃま、あぶな――!」

止める声も届かず、足がつるりとすべり――


ザブンッ!!


水しぶきが上がった。

その音に、どこからともなく走ってきたキャンディが叫ぶ。

「オスカー!」


裾をつかむ間もなく、彼女も池に飛び込む。

冷たい水しぶきが光の粒となって舞い上がる。

「つめたっ……!」

腕の中で小さな体が震えていた。

キャンディは息を詰め、オスカーをしっかりと抱き寄せる。

「大丈夫、ママがいるわ。もう大丈夫よ」

すぐに庭師と執事が駆け寄り、手を貸してふたりを引き上げる。

その直後、走ってきたテリィが目の前の光景に息をのんだ。

びしょ濡れのキャンディと、彼女の胸にしがみつく息子、そして慌てふためく使用人たち。

「……なにがあった?」

「お坊ちゃまが池に! 奥さまもお助けに!」

「まさか、きみが飛び込むとはな」

呆れたように言いながらも、テリィの声には安堵の色が混じっていた。

キャンディは肩で息をしながら笑う。

「考えるより、先に体が動いちゃって……」

「まったく。きみは昔からそうだ、変わらない……」

そう言いながら、テリィはキャンディをぐっと抱き寄せた。

「無茶はするなっていつも言ってるだろ?」

その腕には、叱責よりも深い安堵と愛情がこもっていた。

「ごめんなさい。でも、あの子が……」

「わかってる。わかってる」

頬に貼りついた髪を指で払いながら、テリィは小さく笑う。

「でもな、俺は心臓が止まるかと思った」

その声は少し震えていた。

キャンディは驚いたように見上げ、ふと微笑む。

「……あなた、もしかして泣きそう?」

「馬鹿言うな」

「ほんとに?」

そのやり取りに、周囲の使用人たちは息をのんだまま立ち尽くしていた。

テリィが妻を抱きしめる姿はただの抱擁ではなかった。

彼は心からこの人を愛している。

言葉がなくても伝わってくる。

誰もがそう感じた。


タオルにくるまれたオスカーは、ぽたぽたと水を垂らしながら、

庭師の差し出した帽子を見上げてにっこりした。

「……ぼーち、いた」

「乾かそうな」

テリィが優しく言うと、オスカーはこくんとうなずいた。


屋敷のテラスに干された帽子は、陽の光を浴びて少しずつ乾いていく。

風が吹くたび、リボンがかすかに揺れた。

オスカーはタオルの中から顔を出し、

「……ぴかぴか」

とつぶやいた。

キャンディはその横で微笑みながら、髪を指でほぐしてやる。

「もう少しで乾くわ。そしたらまたかぶろうね」

「うん……」

その様子を見て、テリィはふっと笑みをこぼした。

キャンディも小さく笑い、風に揺れる青いリボンを見つめた。

夏の午後の光が、彼らの髪をやさしく包んでいた。